boogyman's memo

アニメーションと余日のメモ欄

『SSSS.GRIDMAN』導入部の演出/情報量

謎に満ちていて、否応なしに引き込まれてしまう。目と耳を凝らして何かないかと探ってしまう。雨宮哲監督の『SSSS.GRIDMAN』は用心深く、視聴者を刺激する。

中でも、物語の導入部にあたる第1話「覚・醒」の演出はじつにミステリアスだった。記憶喪失の主人公である響裕太がクラスメートの宝多六花の家で目覚める場面、その唐突な展開に驚かされた一方、引っ掛かったのはセルで描かれたプロップの情報量。

f:id:tatsu2:20181017115459p:plain

f:id:tatsu2:20181017115522p:plain

リビングをハイアングルで収めたカットは新旧の電話機、ソファー、テーブルなどの大きな家具、散らかった小物にいたるまですべて実線のあるセル。祐太が顔を洗うために向かった洗面所もセルで埋め尽くされ、歯ブラシが3本あったり、棚に並べられた洗面用具、洗剤が意味深だ。そんな風に思えるのも、「何が動くか(重要か)分からない」セルの情報量*1と「何が起こったのか分からない」祐太の状況が重なっているからにほかならない。「記憶喪失」を逆手にとった過剰な情報供与だ。

畳みかけるように、モニターにグリッドマンが見える祐太と記憶喪失を信じられない六花の噛み合わないジャンプカット。

f:id:tatsu2:20181017140958g:plain

「間」を省略し、掛け合い漫才のようなテンポ感が可笑しみを与えているが、内容は継ぎ接ぎだらけ。微妙に画面がガタつき、ジャンク製品に囲まれた空間であることも皮肉めいている(太股の眩しいサービスカット的要素もある)。記憶はないがグリッドマンを知覚する祐太と「何が起こったのか知っている」六花の互いに持っている情報の隔たり。それは跳躍しても繋ぎ合わせられないということだろう。

f:id:tatsu2:20181017143940p:plain

f:id:tatsu2:20181017143956p:plain

続くジャンクショップ「絢」前~祐太のマンションのシークエンスは、コミュニケーションの境界をレイアウトで表現、同時に電柱/電線の存在感が異彩を放つ。これは『電光超人グリッドマン』が電線を伝って移動していたことを思い出させるファン泣かせの意味合いに加え、境界線は引かれていても何処かで繋がっているイメージを狙っているのかもしれない。何より重要なのは、この世界の空には電線が架かっているという画の説得力だ。

振り返ってみれば、本作のファーストカットは電線の架かった空とは対照的な遮る物のない青空だった。そして学校の手すりに寄りかかって外を眺めていた新条アカネの伏目がちな表情の後、タイトルが表示される。

f:id:tatsu2:20181018145904p:plain

f:id:tatsu2:20181018145924p:plain

無味乾燥のイメージを与えるコンクリートが画面の下半分を埋める、アカネの内面的バックショット。墜落防止の手すりに身体を預ける、退屈そうだったアカネが空を見上げるという行為自体、暗示的かもしれない。

また、導入部(日常パート)に音楽を付けていないのも、言い換えれば音楽によって感情を制御しない、ということだ。映像と効果音によって感情のグラデーションを付ける。読めないがゆえに嵌れば効果の大きい、尖った制作スタイル。つまりプロップにしろ音楽にしろ、情報を与えるところとそうでない部分を明確に分け、作品全体の情報量を巧みにコントロールしている。これは誰あろう、庵野秀明監督が得意とするメソッド*2だ。

特撮、怪獣、円谷、庵野秀明という文脈を辿り、その先に雨宮哲監督はいったい何を仕込んでいるのか。それが好奇心をかきたててやまない。

SSSS.GRIDMAN 第1巻 [Blu-ray]
 

*1:今 敏監督の「東京ゴッドファーザーズ雑考」より、端的にセルの効果を分析している文章を引用する。

“顕著な例は部屋の中である。部屋にある小物類が背景で描かれていると、「身の回りに在る」という実在感が希薄になる。またティッシュやコップが背景で描かれていると、当然それは「動かない」ものとして映り、画面から臨場感や活気のようなものを奪うことが多い”

*2:2000年刊「アニメスタイル」第1号ロングインタビュー「庵野秀明アニメスタイル」参照。

TROYKAの遮断機/七海燈子の踏切

 『やがて君になる』は演出に凝ったアニメだ。小糸侑と七海燈子、ふたりの心情を様々なフレーム、境界線によって描き出そうとしている。そのひとつ、「踏切」についての小話。

踏切は電車や人々が行き交う日常的な場所でありながら、「線」が多く、心理的距離を映すにはうってつけで、時には待ち時間(遮断された世界)まで発生する演出的特性に溢れた空間だ。第2話「発熱/初恋申請」Aパート終盤の踏切シーンは、その特性を存分に使った印象的な場面になっていた。

フィルターワーク、スローモーションのアイディアもさることながら、特に目を引いたのはローポジション、ローアングルで見上げる遮断機のカット。「まぁ仮に女同士じゃなくたってわたし…好きになるとか、ないですけど」という侑の台詞に合わせて、真上から遮断機が降下。遮断桿が下降位置のブレーキで弾んで停止するのに合わせてカットバック、急に立ち止まる燈子にぶつかる侑、という連鎖的な繋ぎが秀逸。燈子の心のような踏切、弾む遮断桿はまるで燈子の琴線。原作通りのシチュエーションをより比喩的な演出で膨らませている。

f:id:tatsu2:20181015074542g:plain

ここで思い出したのが、同じTROYCAが制作した『Re:CREATORS』第1話の冒頭だ。駅のホームを力なく歩くセツナのロングショットの後、遮断棹を垂直に固定したまま回転降下するトリッキーなカット。 

f:id:tatsu2:20181015074508g:plain

奇妙に流転する世界、本来下にぶら下がるはずのテープが横になびく、物理法則の逆転。被造物、引いては物語の属性を暗示する遮断機。踏切を生かした演出は数あれど、こんな意味深な遮断機のカメラワークは見覚えがないな、と感心してしまった。だから『やがて君になる』の当該シーンは「TROYCAの遮断機にまたやられた」と思った。尤も、加藤誠監督は『Re:CREATORS』の副監督でもあり、多少意識的に設計している気もするのだけど……それはまあ、考えすぎかもしれない。

『色づく世界の明日から』と篠原俊哉のポッキー

P.A.WORKS×篠原俊哉の新作『色づく世界の明日から』が始まった。魔法の使える社会で魔法が使えず、幼い頃に色覚を失ってしまい、灰色の世界を見つめてきた少女・月白瞳美が祖母の時間魔法によって突然60年前へと渡るファンタジックな作品だ。

f:id:tatsu2:20181009153309p:plain

第1話Aパートで瞳美は過去へと時間移動することになるが、そこで気になるプロップがあった。彼女が手に持っているポッキーだ。花火の約束をした祖母を待っている間、瞳美はポッキーを口にする。そして時空を超えるバスに乗車しているときにも少しかじり、現金を持っていなかった瞳美は運賃代わりに箱ごと手渡す。Aパートを通して微妙に時間を持て余している雰囲気であるとか、持っていて自然な表現としてポッキーが一役買っており、なんというか演出的な趣向が感じられた。

それもそのはず、じつは篠原俊哉監督は(妙な言い方で申し訳ないけれど)名うてのポッキー使いなのだ。監督作である『凪のあすから』18話と各話演出で入った『Charlotte』(12話、ED)でも印象的な小道具として登場しており、興味深いなと思っていた。

f:id:tatsu2:20181009181505j:plain

ポッキーがどんな性質を持ったアイテムか考えてみると、まずCMの影響(歴代のトップアイドルや女優が起用されている)もあってか、美少女と相性がいい。画的に可愛らしく、くわえたり持っている姿が様になる。また、携帯に適しており、食べるとポキッと軽快な音が鳴る。つまりリアクションが付けやすく、カット内の契機にしやすい。これは演出上便利だなと思う。他方で、「食べかけのまま戻せる」という“機能”を備えているお菓子だ。

f:id:tatsu2:20181009160155p:plain

例を挙げれば、『Charlotte』12話の奈緒は食べかけのポッキーを箱に戻し、有宇に渡している。ひょっとすると見逃してしまいそうなロングショットの芝居だが、「恋人になる約束」「能力の略奪」に「食べかけのポッキー」を加えることで奈緒の心理描写を深めているわけだ(鏡の使い方もテクニカルなシークエンス)。

f:id:tatsu2:20181009163152p:plain

『色づく世界の明日から』にも食べかけたポッキーを戻している場面がある。待ち合わせに祖母が来たところと、(箱の中に戻す芝居は描かれていないが)おそらく戻していると思われるバスの席から立ち上がるシーンの二箇所。これは「そういうの、どうでもいい」と言って祖母に「あなたの悪いクセよ」とたしなめられているように、食べかけであるかどうかなんてどうだっていいと心を閉ざしている表現かもしれないし、あるいは過去への時間移動に引っ掛けて「戻す」ということ意図した芝居なのかもしれない。いずれにせよ、解釈の余地を残す、暗喩的な使われ方だ。バスを降りるシーンでは円筒形の箱の底から映すアングルを利用して「2078.9」を見せているのも効果的(わざわざ説明しない)で、映像演出におけるプロップの活用例として面白いものだった。

f:id:tatsu2:20181009153529p:plain

次はいったいどんな形で用いられるのか、篠原俊哉監督のポッキーに乞うご期待。

22/7「あの日の彼女たち」の演出、魅力

22/7「あの日の彼女たち」キャラクターPV day06 丸山あかね、day07 戸田ジュンが公開されていた。今回は詳細なスタッフ情報が掲載されており、一部で噂されていた通り、アニメーション制作はCloverWorks、監督に若林信、キャラクターデザイン・作画監督には堀口悠紀子。さらに小林恵祐、小林麻衣子、江澤京詩郎、大山神らの名前が並び、“スーパー”制作進行・梅原翔太を含め「エロマンガ先生8話組」が中心にクレジットされている。


22/7「あの日の彼女たち」day07 戸田ジュン

PVで描かれているのは、レッスンの合間の一幕だったり、ファミレスで注文するメニューを悩む姿であったり、短編映画のワンシーンを切り取ったような些細な出来事。登場する人物はPVによって異なるが、基本的にふたりの少女だけ。フィルムから滲み出る少女と少女の関係性、何となく伝わってくる背景。決して雄弁ではないけれど、寡黙でもない。察して楽しむ、そういう性質の作品だ。

驚かされるのは、そのヴィヴィッドな仕上がり。「本当にそこにいる」と思わせるほど精度の高い人物芝居、出来る限りBGMを使わず、環境音を生かした舞台設計。そして肝とも言える光のコントロール

f:id:tatsu2:20181008024113g:plain

f:id:tatsu2:20181008024146g:plain

光の当たり方が変わり、陰影が付く。それによって違う側面が見えてくる、緻密に計算された音とライティング。見ているうちにいつの間にか彼女たちの感性に引き込まれてしまう、そんな作りになっている。その説明的、記号的ではない演出の姿勢はかつて『魔法のスター マジカルエミ』のOVA「蝉時雨」などで見せた安濃高志監督の方法論に接近していると思った。

緊張感を湛えた、何も起こらないドラマ。しかし「何か」がある。言葉に出来ない、あるいは表層的ではない「何か」を安濃高志監督は“克明“に描くことによって獲得しようとした。「克明」とは、表現に必要なものを決めて、周囲にあるものを象徴的に扱い、映像の中に時間を浮かび上がらせることだ。するとやがて心情、つまり目に見えない心の中の思いが照らされていく。「あの日の彼女たち」に流れる時間も、すべてがというわけではないにしろ、やはり心情を描こうとしている。

たとえば、「day07」はBL画面に野菜を切る包丁の音が乗せられて始まり(BLスタートは『エロマンガ先生』8話もそうだ)、煮立った鍋の前に立つ戸田ジュンのところへ、買い物を頼まれた立川絢香が帰ってくる。その右手にはアイスが握られていて、「あたしの分は?」と訊くジュンに対して絢香はアイスを一口、「うまい」と答える。「さいですか」と鍋の方を向くジュンの首筋に不意打ちのチョコミントをピタリ。勢いで蛇口から跳ねた水が切り込みを入れて冷やしている茄子の元へ一滴ポタリ。そして「はい、チョコミント」という絢香の台詞に重ねてタイトルが表示される。

玉葱を切るリズム、台詞の間合い、芝居のタイミング、そのすべてに「凝っている」と見せない自然な空気感が、翻って演出の凄味を感じさせるのだけど、ここで憎いなと思われたのはアイスを渡す直前の綾香の視線だ。

f:id:tatsu2:20181008042837p:plain

鍋に向き直るジュンとは視線を合わさないで首筋に眩しく浮かぶ汗をみつめている。この汗が誰のためのものかというのを絢香は察しているのだろう。他愛のない意地悪、ふたりの距離感、思いやり。それが「チョコミント」「跳ねる水音」「切り込みの入った茄子」に心情として映し出され、意味を持つ。こういった繊細で高度な表現を抜かりなくやり通しているのが、「あの日の彼女たち」の大きな魅力だ。

たぶんそれが出来るのは、実力ある人間が集まり、座組みに信頼があるからなのだろうと思う。新進気鋭のスタッフが集まり、しかも風通し良く上手い連携が取れて初めて成り立つフィルム、という気もする。若林信×堀口悠紀子のPVなんて未だに信じられないくらいだ。若林監督でいえば、『僕はロボットごしの君に恋をする』アニメPVの完成度も素晴らしい。この溢れんばかりの才気をずっと追いかけていきたい。


【フルver.】僕はロボットごしの君に恋をする アニメPV