『SSSS.GRIDMAN』導入部の演出/情報量
謎に満ちていて、否応なしに引き込まれてしまう。目と耳を凝らして何かないかと探ってしまう。雨宮哲監督の『SSSS.GRIDMAN』は用心深く、視聴者を刺激する。
中でも、物語の導入部にあたる第1話「覚・醒」の演出はじつにミステリアスだった。記憶喪失の主人公である響裕太がクラスメートの宝多六花の家で目覚める場面、その唐突な展開に驚かされた一方、引っ掛かったのはセルで描かれたプロップの情報量。
リビングをハイアングルで収めたカットは新旧の電話機、ソファー、テーブルなどの大きな家具、散らかった小物にいたるまですべて実線のあるセル。祐太が顔を洗うために向かった洗面所もセルで埋め尽くされ、歯ブラシが3本あったり、棚に並べられた洗面用具、洗剤が意味深だ。そんな風に思えるのも、「何が動くか(重要か)分からない」セルの情報量*1と「何が起こったのか分からない」祐太の状況が重なっているからにほかならない。「記憶喪失」を逆手にとった過剰な情報供与だ。
畳みかけるように、モニターにグリッドマンが見える祐太と記憶喪失を信じられない六花の噛み合わないジャンプカット。
「間」を省略し、掛け合い漫才のようなテンポ感が可笑しみを与えているが、内容は継ぎ接ぎだらけ。微妙に画面がガタつき、ジャンク製品に囲まれた空間であることも皮肉めいている(太股の眩しいサービスカット的要素もある)。記憶はないがグリッドマンを知覚する祐太と「何が起こったのか知っている」六花の互いに持っている情報の隔たり。それは跳躍しても繋ぎ合わせられないということだろう。
続くジャンクショップ「絢」前~祐太のマンションのシークエンスは、コミュニケーションの境界をレイアウトで表現、同時に電柱/電線の存在感が異彩を放つ。これは『電光超人グリッドマン』が電線を伝って移動していたことを思い出させるファン泣かせの意味合いに加え、境界線は引かれていても何処かで繋がっているイメージを狙っているのかもしれない。何より重要なのは、この世界の空には電線が架かっているという画の説得力だ。
振り返ってみれば、本作のファーストカットは電線の架かった空とは対照的な遮る物のない青空だった。そして学校の手すりに寄りかかって外を眺めていた新条アカネの伏目がちな表情の後、タイトルが表示される。
無味乾燥のイメージを与えるコンクリートが画面の下半分を埋める、アカネの内面的バックショット。墜落防止の手すりに身体を預ける、退屈そうだったアカネが空を見上げるという行為自体、暗示的かもしれない。
また、導入部(日常パート)に音楽を付けていないのも、言い換えれば音楽によって感情を制御しない、ということだ。映像と効果音によって感情のグラデーションを付ける。読めないがゆえに嵌れば効果の大きい、尖った制作スタイル。つまりプロップにしろ音楽にしろ、情報を与えるところとそうでない部分を明確に分け、作品全体の情報量を巧みにコントロールしている。これは誰あろう、庵野秀明監督が得意とするメソッド*2だ。
特撮、怪獣、円谷、庵野秀明という文脈を辿り、その先に雨宮哲監督はいったい何を仕込んでいるのか。それが好奇心をかきたててやまない。