boogyman's memo

アニメーションと余日のメモ欄

22/7「あの日の彼女たち」考 day01 滝川みう

以前まとめたエントリを書いたのだけど、22/7「あの日の彼女たち」キャラクターPVをリピート再生しているうちに、順を追ってもう一度書きたくなった。

今回は「day01 滝川みう」を取り上げてみたい。


22/7 「あの日の彼女たち」day01 滝川みう

PVのスタートはBL画面。真っ黒な画の次に出てくるのは、澄んだ青空と雪の積もったビルの屋上。塔屋の外には室外機が置かれ、扉の前から足跡が伸びている。そしてタイトルバック。カメラは足跡を追っていき、風に吹かれ白い息を吐く少女を映す。透き通るような空気感、足跡にかかる光と影、わずか数カットで作り手の求める映像のリアリズムと感性が滲み出ているが、個人的に最も惹かれたのは「あの日」という言葉、時間への解釈だった。

作劇的には、たとえば滝川みうが塔屋の扉を開いて「歩き出す」場面を設定し、始まりとするパターンも考えられたと思う。けれどその場合、あるものが失われてしまう。それは作品の根幹である「あの日」と名付けられた時間だ。仮想的な現在/未来から振り返る視点性を持つ映像である以上、今から第一歩を踏み出す画では彼女たちの成長を描くという物語性を帯びてしまう。雪上の足跡をカメラが追う、つまり彼女たちの軌跡を追うことであり、扉の中からみうを映すのは既に出来上がっている「あの日」というフレームを意識させるためかもしれない。

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そしてそんなみうを見つめるもう一人の少女、斎藤ニコル。環境音の違いによって内外の対比を感覚的に伝えると共に、彼女の存在は「フレーム」に新たな意味を持たせる。フレームとは言い換えれば、本来彼女たちが収まる場所。アイドルという枠だ。そのフレーム、扉を開けると強い風が吹き、鮮やかな陽光に照らされる「滝川みう」が振り向く。光の変化の表現、思わず息を呑み踏み出すことなく後ずさった芝居*1、瞬きすらせずみうを見つめていた意味――「リハ、始まるけど」*2に込められた彼女たちの関係値と“今”。そこから伝わる「彼女たち」(複数形)ではあるけれど、「彼女」(単数形)でもあるという、明確な言葉にできないニュアンス。ラストの脱力し、深呼吸、グッと力を入れ直す芝居も弛緩(普段着)と緊張(アイドル)のメタファーのよう。

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 「day01 滝川みう」を通して分かるのは、若林信監督が1分程の映像に想像的な物語性と意味性をいかに巧みに描き入れているかということだ。ミクロな話であると同時にシンボリックな「短編映画」として見せる。その制作スタイルは、この後のPVにも引き継がれていく。

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*1:もし踏み出していたら足跡は重なっていたのか、いなかったのか。

*2:「リハ」という現在進行形の言葉によって、「day01」の“地点”がうっすらと浮かび上がってくる。