boogyman's memo

アニメーションと余日のメモ欄

東京、選択、反射――『天気の子』感想

新海誠最新作『天気の子』は身も蓋もなく言えば、「東京」の映画だ。「東京」と「新海誠」の関係は過去の作品群を振り返っても明らか。時に憧憬として、時に焦燥として、そして交差する場所として扱われている。もしかしたら、新海誠という人を映す鏡のような場所なのかもしれない。

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『天気の子』の始まり方で印象的だったのも、じつはそれだ。アバンタイトル、病室で母親の横に座る陽菜が雨に濡れた窓ガラスに映り込み、その奥には東京の街と海、雨雲が広がる。

反射/映り込みをファーストシーンに持ってくる演出は、新海作品ではお馴染みと言える。『秒速5センチメートル』や入口を同じにした『言の葉の庭』、また『雲のむこう、約束の場所』にも同様のカットがあり、いずれも「東京」を舞台に"反射"している。

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そこに映っているものはそれぞれの「東京」を象徴するものといっていい。だから予告(予報)にもあった陽菜のカットがアバンで使われていることには驚いた。最初からすべて示唆していたわけだ。

本作で描かれている東京は、猥雑で路地裏の匂いがする東京だ。もちろん、雨上がりの光の筋がアスファルトを照らし、街を美しく彩る瞬間はある。だが目に留まるのは、快適さの陰で回り続ける室外機であったり、空を遮る電線であったり、廃ビルの屋上に設置された鉄錆の浮いた手すり。おもしろいことに、ヤクザ風の事務所まで出てくる。世間知らずの少年が踏み込みすぎてしまった、という体であっさり処理されているが、今までの新海作品で最もアングラな部分に目を向け、立ち入ったことは間違いない。それを帆高の目から見た東京の現実として対面させ、行き過ぎれば暴力による報復が待っていると描く。そこに登場する拳銃というガジェットは、そんな暗いところが零れ落ちてきたある種の「お守り」だった。しかし帆高は陽菜に咎められると、人を殺しかねないことの重大さに気が付いて、反射的に投げ捨てる。ドラマの転換点だ。我が身を守るため肌身離さず持っていたものを投げ捨て、新たに守るべき人と出会う。そして東京にやって来て初めての「晴れ」を体験する。つまり、帆高は「東京」への抑止力を捨て、彼女と彼女の笑顔を選んだのだ。

何を選ぶかというドラマとして考えてみると、帆高を追い出した後、夏美に漏らす須賀のつぶやきは社会規範や現実に慣れ過ぎた、「大人」の心境を薄暗く表現したセリフに聞こえてくる。

人間歳取るとさあ。大事なものの順番を、入れ替えられなくなるんだよな。

娘とまた暮らすためには帆高を追い出すしかなかった。だが翌朝、須賀は半地下にある事務所の窓の外に雨水が大量に溜まって水圧が掛かっているにもかかわらず、強引に開けてしまう。水流で後味の悪さ、罪悪感を洗い流したかったのか、真意は分からない。ただ少しだけ、順番を入れ替えたことは事実だ。賢明な判断のできる「大人」ならやらない選択をしたのだから。

須賀の姪である夏美もそうだ。就活にマイナスになろうが構わず、警察署から逃げ出す帆高を助け、パトカーとカーチェイス。陽菜に人柱のことを明かした罪滅ぼしの気持ちがあったのだとしても、やり過ぎであることには変わりない。しかし、その表情はずっと自分を縛っていたものを振り払って駆け抜ける清々しさに溢れている。さらに凪の『君の名は。』的な男女入れ替え工作は、そんな大人たちが必死で大人であることを取っ払おうとしているときに容易く大人の目を欺く、どちらが大人か分からないしたたかな作戦だった。

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そうした状況の中で、帆高はもう一度拳銃を握り、「大人」の須賀に向かって銃口を突き付ける。帆高からすれば、嫌悪感さえ抱いて捨てたものを拾い直し、須賀からしてみればどうしようもなくなって見捨てたものに拳銃を向けられている格好だ。そして帆高は拳銃を警官の目を引くため投げ捨て、須賀は帆高を今度こそ見捨てずに助ける。ドラマが激しく交錯するポイントだ。帆高は当の陽菜に気持ち悪いと言われた「東京」「大人」への抑止力を手にしてでも陽菜のもとへ行きたい。けれど、それは手にしてはいけないものを手にしてしまった、ルールを破ったとも言える。手錠が掛けられるのはその罰かもしれない。しかしすぐに手放し、捨て去った。だからその先を「大人」であることを捨てた「大人」が引き受ける。
拳銃、指輪、手錠といった小道具と様々な心情が入り組んだ選択のドラマだ。ここまで見せておいて、陽菜に「自分のために願って」と帆高は言う。晴れなくたっていいと叫ぶのだ。

エピローグは、そんな選択に対して強く宣言するための儀式的な舞台だ。帆高の言葉は、改めて映画を鑑賞して噛み締めることができた。これには少し説明がいる。そもそも新海作品において、「大丈夫」とは何だったのだろうか。主だったセリフを挙げてみよう。

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20世紀のエアメイルみたいなものだよ。うん、だいじょーぶ! 

何が大丈夫なんだ。

ほしのこえ』(2002)

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大丈夫だよ。目が覚めたんだから。これから全部また……。

雲のむこう、約束の場所』(2004)

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貴樹くんは……きっと、この先も大丈夫だと思う。ぜったい!

秒速5センチメートル』(2007)

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それは人違いだよ。だって落ちたりしないもの。大丈夫、違うもん。心配しないで。

星を追う子ども』(2011)

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……ねえ、わたし。……まだ、大丈夫なのかな……?

言の葉の庭』(2013)

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君の名前は、三葉。……大丈夫、覚えてる! 三葉……。みつは、みつは、名前は三葉! きみの名前は……。

君の名は。』(2016)

恣意的に抽出してあるため、実際にはもっと使われている。共通しているニュアンスは喪失に立ち会う、あるいは予感する、そうした状況で出てくる言葉だということ。劇場作品すべてで、だ。それが分かって、もう一度観てみると、ある感情が湧きあがってきた。
あの『君の名は。』のラストシーン、すれ違う二人にミカコが、ノボルが、貴樹が、明里が重なって見えた。新海誠の世界で届かなかった彼ら、彼女たちが二人に映り込んでいるように思えてならなかった。帆高の言葉が反射する先もそう、喪失を目の前にして「大丈夫」といった彼と彼女。そこでようやく、ああ、『君の名は。』で示したディスコミュニケーションの向こう、ダイアローグの出口に立って、さらに進もうとしているんだなと伝わってきた。雨の降り続く東京で、最後に選択し、反射する言葉。

「僕たちは、大丈夫だ」

新海作品でこんなにも力強く、祈りを捧げる少女に向かってもう手を離さない、共に生きていくと宣言する少年が出てくるとは、10年前の自分に言っても信じないだろう。 まだしばらくの間、噛み締めていようと思う。

最後にもうひとり、「大丈夫」にたどり着いた人物について書いておきたい。コミカライズ版『秒速5センチメートル』最終話「空と海の詩」に登場する、27歳になった「コスモナウト」の主人公、花苗だ。帆高より遠い種子島から貴樹を探しに東京にやってきた花苗は戸惑い、迷いながら、貴樹へ繋がる"チケット"をもらう。そのとき、掛かってきた電話の相手に対して「大丈夫」という言葉で返答し、自分自身と向き合い、歩き出していく。このオリジナルエピソードは、新海誠という作家に秘められていたコミュニケーションの可能性を掬い取り、先んじて描いていたのかもしれない。空と海に囲まれた島から東京を眺め、大切なものを追いかける帆高と花苗。東京で口にする「大丈夫」の意味。『天気の子』鑑賞後に、読み返したくなる一篇だ。