boogyman's memo

アニメーションと余日のメモ欄

「鬼滅の刃」と「未来福音」 

まさに待望の一冊。話題の『鬼滅の刃』最終巻を先週、発売日に買って読んだ。

単行本の加筆・修正で印象の変わるマンガは少なくないが、『鬼滅の刃』の場合、元々帯びていたメッセージ性が加筆によってより深く読者の胸に届くように描かれており、読後の余韻もひとしお。劇場版の大ヒットも本作の発するメッセージが映像や音楽と上手く掛け合わさった結果なのだろうな、と改めて思わされた。

鬼滅の刃』は人を喰らう鬼の跋扈するハードな世界の物語だが、根底に流れているのは「人の想い」であり、その「不滅性」だ。人は死せども想いは消えない。そして想いは受け継がれていく。そんな作品の性質とアニメーション制作を担当したufotableを重ねてみると、不思議と浮かび上がってくる作品がある。『空の境界 未来福音』だ。

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空の境界』はいわずとしれた原作・奈須きのこの伝奇小説。元は同人小説だったが、幅広いメディア展開が行われ、映像化は「TYPE-MOON × ufotableプロジェクト」として大々的に制作された。『未来福音』は本編の後日譚やサイドストーリーを集めた作品で、長い長いエピローグの形をとったボーナストラック。あるいは「空の境界」という物語に於ける「加筆」と言い換えてもいい。そして、その加筆されたエピソードの視線はすべて「未来」を向いている。けれども、劇中ある人物が自分に未来のないことを告げられる。道行きは真っ暗、救われることもないと。だが続けてこう言われるのだ。それでも、貴方の夢は生き続けるわ、と。

奈須きのこの書く夢(ユメ)と、吾峠呼世晴が描いてきた「人の想い」。おそらく、そこには同じ光が射している。だからこそ、ちょっとだけ夢見てしまう。「鬼滅」のエピローグ、「未来福音」がアニメーションになる日を。もちろん「extra chorus」付きで、だ(外伝の甘露寺蜜璃が可愛い)。

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「ハーケン」の意味 

まさか、は突然やってくる。『ハイキュー!! TO THE TOP』15話の本放送を観ていて、『ハイキュー!!』で、いや松下慶子班のアニメでこんな乱れ方をすることがあるのかと思った。

松下慶子プロデューサーは『ももへの手紙』をはじめ、『うさぎドロップ』『げんしけん二代目』『ボールルームへようこそ』など、劇場・TVシリーズを問わずハイレベルな作品を制作するチームのプロデューサーだ。『ハイキュー!!』シリーズは、その「松下班に乱れなし」を如実に体現するアニメ。ゆえに部分的とはいえ、演出に影響を及ぼすような"緩み"が画面に出ていることが信じられなかった。それくらい飛び抜けてアベレージの高いシリーズだったのだ。

悔しかっただろうな、と思う。勝手な思い込みかもしれないが、プロデューサーだけでなく、監督以下かかわってきたスタッフの多くが、15話の放送に対して期するものあったのではないかと想像してしまった。だから、第22話「ハーケン」で尾白アランのスパイクを日向をレシーブしたトリプルアクション、そして止まる時間の中で語られる言葉には思わず目頭が熱くなり、画面がぼやけて見えた。

――稀に、長く、そして多分苦しい事の方が多い時間の中で、ごく稀にこういう1本がある。

思い出すだけで心が奮い立つような、自信が蘇るような、大きく険しい山を登る途中に足掛かりとなってくれるような1本。

それは奇蹟などではなく、100本に1本、1000本に1本であれ掴みに行って掴む1本。

稀に掴む、そういう1本を紡いで上へ上へと登って行く。

ほぼ原作準拠の展開であり、言ってみればこれは名場面の再現だ。原作の素晴らしさは今更持ち上げるまでもない。間違いなく最高の作品だ。しかしその「再現」にいったいどれだけの想いが託されているのか。このスパイクを受けきれなかったら、つまり「劇中屈指の名場面」をレシーブ(アニメの文法に置き換えて再現)できなかったら、"アニメ化"の意義が揺らいでしまっていたのではないか。そんな風に考えてしまうほど重く、意味のある1本だったかもしれない。コンテ・演出を担当した佐藤雅子監督はシリーズすべてにかかわり、満仲勧監督からバトンを渡された人で、敢えて挙げれば「VS 白鳥沢」4話「月の輪」の演出が有名だろうか(これもトリプルアクション+一瞬の時間停止がある)。

正直言って、『ハイキュー!!』ほどのハイアベレージが期待される作品を引き継ぐ監督は厳しいなと思っていた。良くも悪くも人間は最初に見たものを基準にしてしまう。満仲期と比較されて立っていられる演出家なんて……そこへ果敢に挑んでいったのが佐藤雅子監督だった。いわば稲荷崎、烏野と類する「挑戦者」の立場。

「ハーケン」は原作第281話と同じサブタイトルだが、原作のあの瞬間を、あの感銘を再現しようとして再現した、「掴みに行って掴んだ」話数だ。そこには原作と違った意味も乗っている。「思い出すだけで心が奮い立つような、自信が蘇るような、大きく険しい山を登る途中に足掛かりとなってくれるような1本」。こういうものが見れるから、アニメは堪らないのだ。

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虎杖将監論 

虎杖将監(いたどり しょうげん)は『ストレンヂア 無皇刃譚』(安藤真裕監督/2007)の登場人物のひとりで、国盗りの野心を持つ男だ。大塚明夫の好演もあり、歴戦の将たる貫録を漂わせているのだが、金髪碧眼の剣士・羅狼との一騎打ちの最中、不意の凶弾に斃れる。過去「大渡」の国で共に戦った将監と名無しが、同じ砦で剣を抜いているにもかかわらず、相まみえることなく戦の中に散り、去っていく哀愁は、時代劇映画特有の余韻だろう。

物語の本筋が名無しと仔太郎の「道連れ」だとしたら、将監が担ったのは舞台となる戦国の世のならい、「下剋上」だ。大渡から「赤池」の国へ流れてきた将監は、数年の内に腕一本で領主の信頼を勝ち取り、将兵たちをまとめ上げる立場にまで出世している。赤池が小国であったことも幸いし、なかば兵権を握っている状態だ。狙うは一国一城の地位。

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「己の身の丈に合わせて望みを決めるなど真っ平よ。わしはの、望みの大きさに合わせて、身の丈を決めてやる」

我が子を抱き(ハガレン顔をした子のボンズ感よ)、妻に語るこの言葉にこそ、虎杖将監という人物が象徴されている。高山文彦入魂のセリフだ。一方で、将監は領主の娘である萩姫に想いを寄せる戌重郎太には「高望みはやめておけ。望みは身の丈におうたのが一番じゃ」と戒める言葉をかけている。野心は機が熟すまで隠せと言っているのだろう。豪胆に見えてその実、抜け目ない性格であることが伺える。

実際、ひとつ歯車が噛み合えば、将監の大望は成就していたかもしれない。人質にされた領主の胸を重郎太の矢が貫き、主を失った兵が将監つくと声をあげた時、下剋上の足掛かりは成ったといっていい。後は明の武装集団が籠る獅子音の砦を落とし、「主君の敵討ち」の大義名分を果たせば晴れて赤池は将監の国となったはずだ。短慮があったとすれば武装集団が皆手練れであり、力攻めするには兵士の数が足りず、加えて羅狼の桁外れの剣腕、明の火縄銃など、将監の思慮の上をいく備えがあったことだろうか。とはいえ、得意の槍を振るい、木卯・木酉姉妹を倒し、羅狼がいなければ、と思わせるところまで追いつめたのだから、武人としての「格」は示したと言える。

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将監が死の際に何を思ったか、修正原画の注意書きには「戦の楽しさ70%、未練10%、武士魂20%」とある*1。奇しくも強者と戦いたいと願っていた羅狼に似た性分だったことが分かる注意書きだが、将監の死はそのまま「赤池」の滅亡を意味する。主を失い、軍の中心人物がいなくなった小国の運命は想像に難くない。そんな重責を背負っていながら、戦の楽しさに身を任せてしまった将監は、一国一城の主になる器はあっても武人の性から抜け出しきれない人物だったようにも思える。

ちなみに将監の最期は本編と脚本でかなり違っている。羅狼に槍の一撃を躱され、穂先を切り落とされるところは同じだが、脚本では羅狼に袈裟懸けに斬られ、壁にもたれ祭壇から下りてくる名無しと仔太郎を眼にする。そこで「大渡」時代の回想(フラッシュバック)が入り、かつての戦友を息絶える間際に見つめるという刹那のドラマが展開される流れ。完成映像だとその回想は櫓の中で覚醒する名無しの悔恨・未練になり、仔太郎を助ける動機へと繋がれている。将監が名無しをふたたび見ることはなくなったわけだ。結果的にそれがドラマなき突然の死という無常な『ストレンヂア』の魅力になった気もするからおもしろい。安藤真裕監督と高山文彦の綱引きでもあった将監の死に際。一考の価値ありだ。

 

ストレンヂア -無皇刃譚- [Blu-ray]

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  • 発売日: 2008/04/11
  • メディア: Blu-ray
 

*1:限定版付属ブックレット「特選 作画監督修正原画集」より。

黒澤明の演出方針

11月8日に放送された「黒澤明の映画はこう作られた〜証言・秘蔵資料からよみがえる巨匠の制作現場〜」で興味深い資料が紹介されていた。スタッフにだけ配布したという自身の演出プランを語った文章だ。

「私の演出方針大要」

 俳優の演技は演技を感じさせてはいけない。つまり、それ程、自然でなければならない。キャメラキャメラを感じさせてはいけない。つまり、キャメラの位置の移動は俳優の動きにしたがって動き、俳優の動きが停った時に動いてはいけない。
 私は、通常、二台のキャメラを使い、一つのシークエンスを、綿密なリハーサル(俳優の演技、動き、それについて動くキャメラのパン、移動。照明機具の操作)を行った後、一挙に撮影する。何故ならば、役になりきった俳優の感情の起伏を分断して、改めてそれを俳優に要求しても無理だと言う事を、永い経験で学んだからである。
 それから、特に強調したいのは、如何に撮影するかと言う事も重大だが、最も重大なのは撮影する対照物(俳優の演技、自然の状態、照明、大道具、小道具、衣装、その他)に完璧を期する処にあると考える。俳優の演技を、最も短い時間に凝縮し、最も映画的な被写物を創る事、それが最も肝要である。下らないものは、如何なる撮り方をしても下らない!
 また、この映画では、自然の暴威を描くシーンが多々あるが、それを待つ時間も悔しいし、その条件では撮影不可能という事もあると思う。その為、人工的にそれをつくる用意が必要となろう。
 その他、いろいろスタッフと協議した上、シーンごとに細い打合せをしなければならない。
 この映画製作は、いわば一大作戦である。
 計画と準備にぬかりがあってはならぬ。
 それから、もう一言、私は編集の材料を集積するためにフィルムを沢山使う。
 編集は、私がやる。

書き写していて思ったのは、もし戦国武将・武田信玄が映画監督だったら言いそうな事が並んでいるなと。黒澤が信玄を題材にした『影武者』を撮っているゆえにそう感じてしまうのか、まるで合戦を前に語る心得のように聞こえる。事実、そうなのだろう。信玄は有利な地形を選定し、状況を作り、勝利を収めてきた。それは信玄から織田信長に、羽柴秀吉に、そして徳川家康へ引き継がれた勝つための思考。ここで語られている演出方針は、言い換えれば映画製作における黒澤明の「勝利条件」なのかもしれない(ちょっと押井守監督の語りに似ている)。

勝つために戦え!〈監督ゼッキョー篇〉

勝つために戦え!〈監督ゼッキョー篇〉