boogyman's memo

アニメーションと余日のメモ欄

『どんぐりの家』と安濃高志

アニメーション映画『どんぐりの家』を久しぶりに観た。以前に観たのは何かの上映会だったはずで、もう20年近く鑑賞する機会がなかったのだけど、安濃高志監督の演出について確認したいことがあって視聴。細部まで観直すことができた。

『どんぐりの家』は山本おさむの同名漫画を原作とした映画。山本自身が総監督・脚本を手掛け、安濃高志は監督と絵コンテ(共同)を担当している。物語は田崎茂の妻・良子がろう重複障害を持つ圭子を出産するところから始まり、同じく重複障害の子を抱える家族、ろう学校の教師など、重複障害にかかわる社会的環境を様々な人々の視点で描き、共同作業所「どんぐりの家」の設立、運営に携わっていく姿を具体的に説明していく。アニメーションではあるが、フィルムの後半は県のろうあ協会理事の方をはじめ、「どんぐり」の支援者が当時のことを振り返って語る実写パートもあり、ドキュメンタリー映画の側面も持っている。

原作者が総監督と脚本に立っている甲斐あって、映画も概ね原作の流れを踏襲する形で作られているが、驚かされるのは何気ない風景に潜む緊張感だ。例えば、映画の冒頭部分を比べてみよう。原作は圭子の母である良子が出産を終え、看護婦と話したところでシーンが終わっているのに対し、映画は茂が仮死状態から蘇生した圭子の容態を聞き、良子のもとへ行くまでの様子を克明に描写している。茂は極めて静かだ。騒がしい受付を通り、エレベーターに乗り、他の夫婦や赤子の脇を通り抜け、良子の病室のドアをノックする。マルサインを出してようやく笑顔を浮かべる茂は良子の隣に座り、窓ガラスに息を吹きかけて「圭子」と書く。良子の手を握った茂の後ろでは、圭子の名前から水滴が垂れて崩れている……。

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この冒頭の場面で茂は一言も喋っていない。仮死状態から回復した我が子のことを喜ぶどころか、神妙な面持ちで黙ったまま歩いているのだ。新生児仮死による後遺症の心配、未来への不安、そうした悪い予感が茂の中に渦巻いている。それを言葉にしないまま、点滅する信号機と無言に潜ませるという張り詰めた演出。もしかしたら、圭子が声で伝えられないことへの伏線でもあったのかもしれない。個人的にここで脳裏をよぎったのは、『魔法のスター マジカルエミ』の特典映像として制作された「雲光る」だった。

監督、脚本・安濃高志で2002年に発表された『魔法のスター マジカルエミ 雲光る』はTVシリーズから時系列を遡り、主人公である香月舞の弟・岬が誕生する前後の様子を切り取った15分弱の短編だ。両作の風景はよく似ている。出産、雨、何度も開き閉じられる扉、そして映像の寡黙さ。『雲光る』はTVシリーズの主題歌が流れるシーンこそあれ、それだけだ。劇伴は付けられていない。雨音の響くこのフィルムに収められているのは不在の緊張感、変わらないようで変わっていく日常、少しずつ成長する舞の《記憶》。例えば自転車の補助輪を外すという舞にとって大きな出来事も、自転車を無言のうちに映すだけで、舞がそれを口にすることはない。穏やかに過ぎていくように思える時間の中に、誰もいない不在の瞬間があり、成長の証がある。その風景を淡々と《記憶》しているのだ。

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『どんぐりの家』は『雲光る』より説明的ではあるものの、「説明できないこと」の艱難辛苦から目を背けず、光を向け描き出した作品だ。田崎夫妻と圭子の次に登場する柏木親子を見てみよう。

圭子と同じく重複障害を持つ柏木清。その母親は耳も聞こえず、話すこともできない清に疲れ果て、一時は身を投げようとするところまで追い詰められる。しかし跨線橋の手すりの上に清が並べた石を、清と同じ目線で眺めたとき、訴えていることに気づく。清は夕焼けの美しさを石にも見せようとしていたのだ。それを分かった母親は清が心の中に綺麗なものを持っていると分かり、もっと清と話そうと決意する。ここで初めて清のモノローグが入り、母親の理解が正しいことが明かされる。秀逸なのは、車両が通る度、揺れて落ちそうだった手すりの石の意味が反転し、「心の震え」へと変わっていることだ。ろう学校の先生に「綺麗事ばかり言う」と言っていた母親が、「綺麗なもの」を目の当たりにし、変化する心の内を石の揺れ/震えという描写で何の不足もなく語りきっている。

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この非常に細やかな心情の語り口には安濃高志を感じずにはいられない。身の回りにある何か、橋の上にただ転がっている石であっても登場人物を象徴するモチーフになり得る。それを実践してみせた感動的なシーンだ。

舞の補助輪と同じく、成長を分かりやすく示しているのが、大きくなった圭子の初潮。突然血を見て動揺させないため、良子は予め自分のありのままの姿を見せて学ばせる。やがて圭子にもその日がやってくるのだが、ストーリー構成が上手く、表現も鮮やかだ。場面としては「どんぐりの家」の動きが活発になり、光明が見え始めた次のシーン。

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遠くを見つめる良子のカットからの飛行機雲のモンタージュ、それを見上げる圭子へとつながっていく連続性のある映像で表現されているのは、何かが出来るという予感と青空に残った"跡"だ。良子が見せていた"跡"と飛行機の航跡が圭子に訴えかけ、「大人」に向けて圭子はひとり駆け出す*1

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飛行機雲は、前半に良子が圭子に限界を感じていたシーンにも出てきており、このときは画面に何本も走る電線と交差する格好で、良子の心を突き破っていくかのような映像になっていた。ある意味ではネガティブなイメージを与えていた飛行機雲を、今度は逆に肯定的なモチーフとして扱う。表現の意味合いを反転させる、柏木清の石と同じことを長いスパンでやっているのだ。繊細で念入りな演出だが、圭子だけでなく、母親であることから逃げたいと願っていた良子が、全霊をかけて「圭子のお母さんでよかった」と述懐するまで育んできた愛情にも飛行機雲のモチーフが掛かっている。ひとつのモチーフを親子で共有し、象徴するものとする。これは安濃高志のスタイルであり、また本作ならではの手法だとも言える。

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そして、茂を含めた田崎夫妻と圭子の関係に使われているのはジャングルジムだ。幼い圭子が他の子と違う、と茂が良子に話すシーンでは圭子に回転ジャングルジムの*2の影が落ちている。黙々と砂を掘り続ける圭子に、「他の子」たちの遊ぶ影が圭子を捕らえるように落ちるという不穏な画面。ジャングルジムは田崎親子にとって重いモチーフだったのだ。

しかし圭子が中学部に上がる頃、それは変わったのだと語られる。月の綺麗な夜、圭子は髪型を好きだったポニーテールにして、帰宅した茂の前に恥ずかしがりながら出てくる。舞台は公園に移り、親子水いらず箱型ブランコに乗りながら、良子は圭子が電車の乗り換えをして一人で通学することを明かす。つまり、自立した社会生活を送る準備が整ったサインだ。

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少しずつ親元を離れていく圭子を寂しく思い、ずっと一緒にいたいと泣いてすがる良子を茂は優しく抱き留めてやる。そんな二人に対して圭子は軽やかにジャングルジムを登り、大きな月をバックに笑顔で手を振る。もうあの日の影が圭子に落ちることはない。それどころか、見上げるほどに成長した。クライマックスに相応しい美しい光景だ。「球体」ジャングルジムのモチーフを、月という大きな球体とジャングルジムで迎えて昇華させ、影ではなく光を当てるきめ細やかな映像演出。アニメーション作品として高い評価を受けた所以は、こういった豊かな表現にもあるのだと思う。

最後に、Wikipediaやデータベースに掲載されていない作画、演出スタッフのクレジットを書いておく。

コンテ/安濃高志小林常夫佐藤卓哉小林治

レイアウト協力/荒川真嗣、大竹正枝、芝山努、山田みちしろ

演出助手/矢野篤

作画監督柳田義明藤森雅也、生野裕子、山口博史、関根昌之

原画/高野登、田中平八郎、前田康成、櫻井美知代、渡部ユウコ、津幡佳明、羽根章悦、千葉ゆみ、湯浅政明、清水洋、鈴木満、宇田川一彦、関口雅浩、山川浩臣、服部一郎、野崎恒仲、加来哲郎、村田充範、柳野龍男、桑野佳子、中村紀、才木康寛、

動画チェック/弓納持幸子、原鐵夫、岸誠二

 

*1:この場面は人物芝居の密度も高く、原画が気になるパートのひとつ。

*2:製作した日都産業によれば、遊具の正式名称はグローブジャングル。