『ToHeart』再見 第1話「新しい朝」
近頃、自分の中で『ToHeart』ブームが再燃している。たまたま観返す機会があり、改めて高橋ナオヒト監督と千羽由利子作画の手腕に惚れ直している次第。TVアニメ版の特徴は、日常芝居を中心とした実写的雰囲気を打ち出し、「原作のアニメ化」から離れ、監督が云うところの「前向きなノスタルジー」に着地した点にある。そして何より、派手さを抑えた生活感重視のスタイル、大枠では「美少女アニメ」でありながら登場人物が本当に存在するかのように扱う手つきは、後にブレイクを果たす京都アニメーションの作品群が持つコンセプトに近い。
とはいえ、『ToHeart』の“地味さ”は後発の作品と比べても群を抜く。その象徴的なエピソードが第1話「新しい朝」だ。原作が有名タイトルであるがゆえに「クラスの席替えだけで終わった初回放送」は予想外だったのか、ファンの間では語り草となっていて、いまにして思えば「何も起こらない日常」の究極形のような作り。だがよくよく振り返って味わいを確かめてみると、挑戦的な精神と工夫が練り込まれた作風であったと気づく。
例えば、原作ゲームの主人公だった藤田浩之の一人称で語る物語ではなく、メインヒロインである神岸あかりがみつめる、浩之を通した世界を描こうとしていること。また原作とは始まりの季節が異なり二学期スタート、浩之とあかりの「思い出の石段」があるなど、様々な設定が追加され、今風でいう“再解釈”が図られているのだ。いわゆる原作の忠実な再現を目指したアニメではないと初回から明かしている格好、と言っていいかもしれない。けれども、それで原作の魅力が損なわれているかといわれたら、まったくの逆だ。「神岸あかり視点」は発明的であり、TVアニメがあかりのいちばん大切な思い出から始まり、彼女の目覚めによって開かれることが物語全体の重要な伏線(最終話ラストシーンへ向かう)になっている。
初っ端のアバンタイトルから千羽作画の真骨頂ともいえる繊細な髪表現に見惚れるほか、石段が坂の途中にあるのも憎い。というのも、高橋ナオヒト監督は80年代角川映画に大きな影響を受けており、『時をかける少女』が映画的感動を意識した最初の映画だというほど*1。説明するまでもなく、『時かけ』を含む尾道三部作の舞台・尾道は「坂」と海の街。さらに作監時代に最も入れ込んだと話す『めぞん一刻』はそれこそ、堂々たる「坂道アニメ」だ*2。これがどれほど的を射ているかはともかく、あかりの思い出の場所へと続く坂道が、監督のノスタルジーと繋がっているかもしれないと思えるところに探求の膨らみがある。
メインイベントである「席替え」の響きも懐かしい。面倒な役回りを押し付けられる委員長、文句タラタラのクラスメイト、気になる人の隣になりたいという密かな思い、だれもが経験していそうな見覚えのある光景だ。ダルそうにしているわりに委員長を手伝う浩之、いつやってきたのか浩之とじゃれつく長岡志保、うっすらと人間関係が描かれる中、シーンの主題となっているのは、常に浩之を意識するあかり。浩之の方を向くあかりのショットを繰り返しながら、あかりの視線に気づいた浩之が希望の席を言い、その横にはちゃっかり志保が居座る。
ここで描かれているのは、三角関係にいたるいわば「予兆の予兆」なのだろう。あかりは志保が浩之の近くにいても焦ったり、嫉妬することなく微笑ましく見守っているだけ。けれど、神岸あかり以外で最も親しく、近しい場所にいる女子はだれか。そういった関係性をやんわりと提示しているわけだ。そして最大の見どころは委員長を手伝おうと立ち上がった浩之をみつめる、あかりの優しい表情。そのクジで浩之の隣を引き当てたあかりの驚きと嬉しさの表情変化。
何のために席替えがあったのか、それはこのあかりの表情を引き出すためだったのだ、と言われたら納得するしかない。夢で見た石段の前、昔と変わらない「浩之ちゃん」への安堵感をセリフやモノローグなしで伝える判断を採った演出も素晴らしいが、作画への絶対的な信頼が伺えるカットでもある。虚飾を取り払った演出は画の説得力がなければ成立せず、また要求もできないからだ。
浩之の隣の席になったあかりが何故こんなに嬉しそうだったのかは、本人の口から語られる。
「わたしね、浩之ちゃんの隣の席になるのが夢だったんだ」
それは夜、毎日書いているのだろう日記に書くほどの出来事。つまり「新しい朝」は思い出の夢から始まって、あかりのささやかな夢がひとつ叶って未来を見上げるという、何も起こっていないように見えても、じつは小さな夢が叶い、夢の中と変わらない人が一緒にいる幸せを胸一杯に抱く「神岸あかり」が存分に詰め込まれたエピソードだったのだ、と分かる。
ちなみにあかりの趣味のいいくまのぬいぐるみ(セル描き!)は千羽由利子設定の賜物で、部屋の作りやレイアウトは監督のオーダーだったそうだ。元ネタは大林宣彦『ふたり』に登場する石田ひかりの部屋だという*3。高橋監督の「大林リスペクト」はこんなところでも発揮されている。