boogyman's memo

アニメーションと余日のメモ欄

『波よ聞いてくれ』12話の信頼とアドリブ

俺、映画でもアニメでも、原作に忠実であるべきだとは決して思わないんですよ。その道のプロが最善と考える見せ方をしていただければOKで。

これは「アフタヌーン」2020年2月号の誌面対談で南川達馬監督に原作の沙村広明が語っていた言葉だ。形式上、多少のリップサービスがあるとしても、思えば最終回に向けた原作者からのメッセージだったのかもしれない*1。アニメ『波よ聞いてくれ』12話「あなたに届けたい」は忠実に原作を追えばまだ先だったはずの北海道地震と大規模停電を盛り込み、全体の構成をアレンジしながらも、非常に綺麗にまとめられている。試されるミナレのアドリブ力、災害時における緊急マニュアルの展開と行動のリアリティなど、原作とは違った道を通ったからこそ、原作読者にとってもハラハラするおもしろさがあった。

特筆しておきたいのは、そこで描かれている「信頼」についてだ。「MRS」のディレクター・麻藤兼嗣はミナレのアドリブを信じた。緊急事態であろうとも鼓田ミナレには切り抜けられる発想とトーク力が備わっているのだと。喋りの「プロ」になれと背中を押したわけだ。その麻藤の最も信頼しているパーソナリティが大原さやか演じるMRSの看板、茅代まどか。作中ではミナレの後番組を担当するため、愛車を飛ばして駆けつけてくるが、茅代が放送ブースに入るまでの芝居作画はじつに素晴らしい。

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放送席に座り、ヘッドフォンを装着する。ただそれだけの芝居にどれほどの説得力を持たせられるか。つまり非日常の最中、いかに日常的かつ平静的な芝居で通せるかという、「普通」の難しさをアニメートする勝負をかけたシーンだったのではないかと思う。慌てず騒がず、安心感のある「いつも通り」の姿。ここにも信頼があるのだ。麻藤が茅代を信頼するように、おそらく南川監督もアニメーターがこの芝居を描いてくれると思って絵コンテを切り、演出している(勿論、大原さやかの力量も信用しているだろう)。ドラマの中で描かれる信頼と作り手の信頼が重なり合う、多人数で制作する「番組」ならではの醍醐味だ。

もうひとつ、演出の「アドリブ」にも触れておきたい。姉に叱られ、帰りの遅い城華マキエを探しに出た中原忠也が、公園で祝杯をあげる城華を見つけ、公園のベンチで話し込む場面。

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基本的には原作コマを活かしたカット割りなのだが、無自覚な中原の優しさが炸裂する途中で、原作にはない城華が何かをつぶやく口元のアップがインサートされている。このインサートは城華の感情が溢れ出す、言わば前触れのようなものだ。スポットライトのような照明、何かを言い出したくて堪らないバックショット。城華マキエが中原忠也にどれだけ参っているか、思わず泣き出してしまう感情の道筋がひとつの「アドリブ」によって原作以上にグッと引き立っている。まさに演出の隠し味だ。

また城華の「泣き」も絶品。能登麻美子の「もお…やだ……」をぜひ聞いてくれ。

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*1:対談の中で最終話のアフレコが終わっていることが明かされており、原作者による脚本・コンテ等のチェックも事前に済ましていたのではないかと思われる。

演出メモ/『空の青さを知る人よ』

『空の青さを知る人よ』は秩父三部作の集大成と謳われているが、「超平和バスターズ」作品としても、完結編的な映画だと思う。演出にしろ作劇にしろ、語り口に迷ってしまうほど密度があり、一つ一つに込められた意味が重い。言ってしまえば、「だれから/どこから」語るか、慎重に選びたくなる映画かもしれない。

「だれから」についてはまず、この2本の記事を押さえておきたい。*1

【藤津亮太の「新・主人公の条件」】第11回 「空の青さを知る人よ」相生あおい

舞台は秩父、せつなく不思議な四角関係(小原篤のアニマゲ丼)

「新・主人公の条件」では相生あおいにスポットを当て、彼女がどうして主人公であるのか解説されている。中でも荒井(松任谷)由実の「卒業写真」と過去/現在/未来の時間のあり方をつなげる鮮やかな手練には思わず拍手を贈りたくなる。公開当時、エンドロールの「写真」に引っ掛かりを覚えるといった感想をいくつか読んだが、これはそのひとつのアンサーだろう(自分自身、少なからず考えあぐねていた)。

対して「アニマゲ丼」の記事は「あかね」ルート(視点)への詳細な読み解きを主としており、あかねの素晴らしさが存分に語られている。とくにあかねが時折みせる微妙なリアクションへの解釈は一読どころか、何度も読み直しながら映像を観たいと思わせる、一種の"解答集"(「正解」とは異なる)になっている。ぜひ作品読解のガイド、参考にしたい優れたテキストだ。

これらを踏まえ、さらに深掘りしていくと何が見えてくるのかというと、例えば最初観たときから気になっていた、あかねの乗るジムニーのとある描写。

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アニマゲ丼の一文を引用しよう。

慎之介が現れて物語が進むにつれ、彼女の本心が明らかになっていきます。彼への思いはあるけどそれをハラにおさめてきたのは、あおいを育てることの方が大事だから。それは自分がガマンするということではなく、あおいにそれだけの価値があり、あおいの成長を見守ることに自分の一番の喜びがある。その選択は主体的なもので、その正しさは彼女にとって揺るぎないものだからです。悲しい「犠牲」にも美しい「献身」にも塗り込めてしまわないところに、奥深さを感じます。

着目したいのは、あかねの選択が主体的なものであるというところ。目の前にどんな壁があったとしても、人生のハンドルは自分で握っている。だから、と言い切ってしまうほどの根拠を求めるわけではないけれど、何故彼女がオートマではなくマニュアルの車に乗り、"悪路"走破性の高いジムニー(山道を通る秩父の土地柄もある)を選んでいるのか、納得できるだろう。

「マニュアル」を生かした演出もある。終盤、あかねと慎之介、「しんの」の3人で帰る車内のシーンだ。

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右手をハンドルに添え、左手でシフトレバーを握るあかね。 そこへインサートされる幼いあおいと手をつないだ高校生のあかねのバックショット。あかねの両手、右手と左手が握ってきたもの。そして、その手を離れていくもの。あかねの「手」(人生)と「マニュアル」を重ねた巧みなモンタージュ。色トレスであかねとあおいを描いているのが長井龍雪監督のフィルムらしく、また「シフトチェンジ」の意味合いがドラマと演出、両方に掛かっている。ベースを弾くあおいの手、そんなあおいの手を引いてきたあかねの手、その手を次に引くのは……これ以上は野暮だろうか。

さて本作を「どこから」切り取るか、書いておきたいのは「囲まれている」という作品のテーマと、その見せ方についてだ。

「盆地ってさ、結局のところ、壁に囲まれているのと同じなんだよ。わたしたちは、巨大な牢獄に収容されてんの」

これは作中であおいが口にした秩父盆地を皮肉って自虐するセリフ。対となるのは、あかねが卒業アルバムに書いた「井の中の蛙 大海を知らず、されど空の青さを知る」という慎之介のデビュー曲の元となり、映画のタイトルにもなっている言葉だ。

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秩父を「井の中」に見立て、仮想的に東京、あるいはもっと広い世界のことを「大海」と呼ぶ。この辺りの秩父と東京の関係性は、秩父市出身、脚本・岡田麿理の肌感覚によるものかもしれない。脇道に逸れるが、元々「井の中の蛙」の故事成語は「荘子・秋水」に由来し、秋の洪水にちなんだ話である。もし蛙が狭い井の中で空を見上げていたとしたら、それは秋の空なのだ。狙ってか知らずか、『空の青さを知る人よ』も10月の終わりから11月の頭にかけての物語*2であり、ゆえにあおいとしんの、ふたりの"蛙"が一年でもっとも高い秋の空へ飛び出すカタルシスの奥行き、意味付けに一役買っている。

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何にも遮られることのない空を飛ぶふたり。しかしそのころあかねは、土砂で出口が埋まってしまったトンネル=井の中にいる。井の中にいたふたりが、井の中に閉じ込められたもうひとり助けに行く。そう、空の青さを知る人を。テーマを救出するみごとな構成だ。個人的に感じ入ってしまったのは、「目玉スター」という目の中のほくろまでを、「空」と結びつけたこと。

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 「目」から消えない、"出られない"ほくろ。しかしその目で空の青さを知った。囲まれていない空を景色を知った目玉スター。しんのであり、あおい自身のことだ。「ほくろ」をどんなアップで見せるか、どのくらい引くと見えなくなるのかという演出指針はかなり細かく指定されているではないかと思う。逆に言えば、「ほくろ」が見えているカットの心理描写を追いかけるのは、面白いかもしれない。きっと何か長井龍雪の"仕込み"があるはずだ。

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カット単位で見るならば、こういった「囲み」レイアウト(≒フレーム内フレーム)、つまり疑似的でミクロな「盆地」が、シーン/シークエンスにもたらしている効果もたしかめたい。閉じ込められているという比喩的かつ心理的状況に共通性があったとしても、内容はそれぞれ異なっている。囲みを超えたり、出たりするのではなく、その中で抱えているもの。あるいは封じられているもの。おそらくそれが『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』のかくれんぼであり、『心が叫びたがってるんだ。』で玉子の妖精に取り上げられたお喋りからつづく、秩父三部作の(岡田麿理的)秩父性、"盆地"性にかかわる部分なのだろう。だからこそ、そこから空に高く飛び上がる運動には、解放感以上の価値がある。集大成と呼ばれる作品の象徴であり、運動なのだから。

まだまだあかねの仕草(手の芝居、ポージング)、レンズ(眼鏡)と演出など、熟考を重ねてみたい箇所は山ほどあるが、ひとまずここで。相生あかねは底が知れない……!

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*1:アニマゲ丼のバックナンバーは公開範囲の変更により、一部を除き有料会員記事になっている。

*2:前作『心が叫びたがってるんだ。』と作中の時期を合わせている可能性も多分にある。

アクアの輪っかと金崎演出

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この素晴らしい世界に祝福を!』は何度観ても笑って騒いでたまにしんみりして、心の底からスカッとした気持ちにさせてくれるアニメだ。今回はそんな『このすば』に登場する水の女神・アクアの「輪っか」について書いてみようと思う。

アクアの髪型はかなり変わっている。後ろに大きな"輪っか"を作り、青い球体の髪飾りで留めるという、特徴的なスタイル。毎朝欠かさずセットするアクアの苦労がしのばれるが、感心してしまうのはその輪っかを使った演出の遊びだ。たとえば第1期8話「この冬を越せない俺達に愛の手を!」Aパート、ウィズの店内をうろつくアクア。

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スーパーマリオ風にジャンプして「の」がコインのように獲得されるアイキャッチから、「輪っか」の左右運動→付けPANでアクアが顔を出すというカット繋ぎ。「の」と「輪っか」の形、上方向への意識をかけたパロディ的かつ映像的な工夫がおもしろい。

また8話には、アクアの髪型でしか成立し得ない演出もある。

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ウィズが見逃してくれた恩返しにスキルの伝授の申し出るシーンで印象的な「輪っかフレーム」。ウィズとアクアの立ち位置からすると、多少嘘のある構図かもしれないが、「アクアに問い詰められるウィズ」という心理的包囲を成立させることで説得力を持たせている。弱い者にはとことん上から目線に出るアクアの人物像が反映された、アクアにしかできない構図だ。

この「輪っかフレーム」は気に入られているのか、第2期1話「この不当な裁判に救援を!」でも用いられている。

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国家転覆罪の容疑で牢に繋がれたカズマを脱獄させるために駆けつけたアクア。牢獄に入れられ、さらにアクアの輪っかに収まってしまうカズマという「二重包囲」が本作らしいブラックジョークなのだが、同話数の後半にはジョークが一変、笑えない方へと事態が進んでしまう(本質的にはシチュエーションコメディが続いている)。

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いささかやり過ぎにも見える絞首台の輪縄をナメたカズマの画。前半の「輪っか」とのギャップが著しく、回り回ってアクアの尻拭いをするカズマの終着点がここだという皮肉であり、結末に思えてしまうところまで含めて『このすば』だ。しかもそれを第2期の初っ端に持ってくるのだ。金崎貴臣監督の飛び道具的な演出の真髄が発揮された瞬間と言っていいだろう。

そして第2期2話では文字通りの飛び道具が、アクアのチャームポイントをかすめていく。

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大泣きしながら必死に逃げるアクアの輪っかを射抜くカズマの狙撃。スローモーション→通常速度へ戻すダブルアクションの凝った設計で、カズマの恨みつらみが放たれた矢に乗り移り、まるで的が二つあったかのような、これまで迷惑をかけられてきた「輪っか」への意趣返しのような、穿った見方をしてしまいそうなシーンになっている。

他にも表情を映さず輪っかだけで語らせるコミカルな広角であったり、わざと人物に被せて「邪魔」という意図に使ったり、用途は様々。女神の輪っかと金崎演出、今一度ご注目あれ。

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『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝』絵コンテ集と愛嬌

先日、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 –永遠と自動手記人形-』のBlu-ray/DVDが発売された。パッケージの詳細が発表されたとき、気になっていたのが「監督厳選 解説付き絵コンテ集46P」の一文。あの自身の演出について自覚的かつ自省的な*1藤田春香監督が何を解説してくれるのか。これはぜひ手に取って確かめなければと思っていた。

だが、あにはからんや、実際に絵コンテが収録されたコメンタリーブックレットを開いてみて、まず目に留まったのはコンテ用紙だった。

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『外伝』のアスペクト比は劇場のスクリーンに合わせたシネマスコープサイズ。当然、絵コンテもTVシリーズとは違う専用の用紙を使って描かれているのだろうと思っていたのだけど、まさかの手描き用紙!*2よく見ると枠線がはみ出していたり、線が重ねられていたりと手作り感たっぷり。単なる憶測にすぎないが、もしかしたら藤田春香監督がみずからのために、通常のコンテ用紙を参考に描いたのかもしれない。

監督による解説はワルツ、前後編ラストを含む11シーン。肝心の絵コンテは被写界深度の指定をはじめ、ヴァイオレットとイザベラの距離感や温度感、世界観など人物の心境を物語る演出指示が多く、感情の積み方、記し方に特徴がある丁寧な内容。ややマニアックなポイントとしては、Cut361Ⓐのpicture内に書いてある小さな「ほんま」の味。

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恋文の代筆に定評があると 「マジレスするヴァイオレット」のト書きもおかしく、すこし緩んで解けた雰囲気の表現が秀逸。ヴァイオレットが口にしているわけではないが、監督の声だろう、関西弁の"地"が出ているところが微笑ましい。じつはこの「ほんま」で思い出した別の「関西弁」がある。「公式ガイドブック 涼宮ハルヒの消失」に掲載されていた絵コンテ、高雄統子パートの長門有希だ。

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ここにはキョンと「あ、目があってしもた。どうしよ。緊張してきた。どうしたらええかわからん」と心の内が書かれている。京都アニメーションには時折、人物の心情を補足的に書いておく演出家がいるが、これは「関西弁の長門有希」という愛らしくも珍しいコンテの中だけの存在。それが記憶に残っていたのだ。

出版された絵コンテ本や特典の絵コンテ集はファン向けの制作資料だが、その楽しみ方はそれぞれだ。通常は完成映像と照らし合わせて変更箇所、あるいは作画の解釈を探ったり、ト書きに演出家の個性を見つけたりする。その点、コンテ内の関西弁はスタジオの土地柄が反映されたもので、言わば愛嬌だ。こういった細かい癖や変わった表現を覚えておくことも、コンテを読み込むおもしろさ。本道からは外れているかもしれないが、横道にしかない発見もある。

真っ当(?)な話もしておこう。本編で咲いている種類豊富な花の数々。前編は白、後編では色とりどりに、という意図で描かれているが、調べて胸を打たれた花がある。それはクライマックス、イザベラがテイラーからの手紙を読んでいるカットの画面手前で咲いているヘリクリサム・ペティオラレ。花言葉は「永遠の思い出」。コンテ段階で花が指定されているので、タイトルの「永遠」に掛かった意味を入れたかったのだろう。それ自体を取り上げると気恥ずかしくなってしまう花言葉だが、ヘリクリサムに関しては、この場面でこれ以上相応しい花はないなと感じ入ってしまった。藤田春香監督の真っ直ぐな演出。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は花と色、そして永遠を繋ぐ空の物語なのだ。

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公式ガイドブック 涼宮ハルヒの消失

公式ガイドブック 涼宮ハルヒの消失

  • 発売日: 2010/02/26
  • メディア: 単行本
 

*1:劇場パンフレットのインタビューはファン必見。

*2:『劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』のパッケージ特典「石原監督厳選名場面コンテ集」と比べてみると、違いがひとめで分かる。

『リズと青い鳥』の下校シーンとシンクロ

凛とした朝の空気の中、軽快な足音が響く。鎧塚みぞれはその音を聞いて、傘木希美の気配を察する。校門から聞こえてくる足音は、物語の始まりを告げる音だ。そして校門につづく階段を降りる足音、これはふたりの少女が鳥籠から出ていく音。『リズと青い鳥』は音によって象られている。

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不思議に思っていたことがある。ふたりが下校するラストシーン、どうして会話の時系列だけ別にしているのだろう、と*1。食べたいものを互いに言い、「ありがとう?」「なんで疑問形なのっ」という登校シーンのやりとりを反復した後、階段を降りるふたりのカットでようやく映像と一致する。けれど、足音は映像にはめてあるのだ。この足音についての意図は劇場パンフレットのインタビュー等で明かされている。

冒頭とラストのシーンは、希美とみぞれの足音が音楽になっていくようなイメージなんです。この足音は音楽の牛尾さんがコントロールしてくださっているのですが、偶然、二人の会話がシンクロする瞬間に二人の足音も重なったんです。

DISCUSSION 種崎敦美×東山奈央×山田尚子(『リズと青い鳥』パンフレットより)

足音を音楽のように鳴らし続け、シンクロの瞬間の小さな奇跡をより響かせる。本作らしい美しいエピソードだが、大切にしたいのは「シンクロ」という観点だ。

細かく見ていこう。下校シーンはみぞれが階段を降りるところから始まる。直前の二つの色彩が混ざり合うカットから希美のセリフを先行させているため、既に画面と会話は非同期。つまり「非シンクロ状態」でスタートしているわけだ。映像とシンクロするのは、校門を出てしばらく歩いた後の階段を降りる途中。希美は振り返って「みぞれ。私、みぞれのソロ、完璧に支えるから。今は、ちょっと待ってて」と話しかける。

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ここではいくつかの意味合いを受け取れる。このセリフは「丁寧に自分の心を解く」とト書きにあるように、希美にとって非常に重要なものだ。対してみぞれは「私もオーボエ続ける」と返答する。映像は同期(通常に戻っている)したが、はたしてみぞれの答えは希美の真意とシンクロしているのだろうか。様々な解釈があっていい場面だ。また登校シーンとは逆に希美がみぞれを見上げ、「鳥籠」の校門を先に出たみぞれ、「心の階段」を先に降りた希美という対比的な構図も出来上がっている。

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「本番、がんばろう」

二人 同時に同じこと言って

みぞれ 覚えたてを使ってみる

「! ハッピーアイスクリーム!」

希美 わからない…

「何? みぞれアイスが食べたいの? じゃ、アイスにするか。決まりーっ」

リズと青い鳥』 録音台本 p.165-166

先に引用したインタビューに出てきた「二人の会話がシンクロした瞬間」とは階段を降りて、ふたりが歩いているときのことだ。ズレていた足音が重なり、非同期から始まった会話も同期するという複層的なシンクロのレイヤーが感動を呼ぶが、もうすこし作品に寄り掛かってみたい。

というのも、序盤のシーンでみぞれは「本番なんて、一生こなくていい」とつぶやいていた。「はやく本番で吹きたい」希美とは正反対だったのだろう。それが希美と一緒に奮起の言葉を口にするようになったのだから、これは立派な成長だ。けれども、みぞれの"性質"に注目すると別の見方が浮かび上がってくる。ヒントは録音台本にある「覚えたてを使ってみる」というト書き。みぞれには雛のインプリンティングを思わせる、印象的な言動*2を真似する癖がある。代表例は図書委員だ。

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図書委員は本の返却期限を守らなかったみぞれに対して、何度も「~ですけど」口調でしっかり職務を全うする物言いをする。すぐにその真似をして希美にジョークを放つみぞれは微笑ましく、さらに後ろをついて歩く様子と重なって「雛鳥」のイメージが形成されていく。要するに「ハッピーアイスクリーム」はみぞれの雛的な面が表出したセリフだということだ。ただ、ここで考えてみたいのは、それを発話するに至った「本番、がんばろう」。希美は作中、口パクで「がんばろうね」とみぞれに言っていたり、「本番楽しみだね」と声をかけている通り、発言に不思議はない。問題はみぞれで、たしかに成長の意味は強いだろう。しかしインプリンティングの性質からすれば――もしかしたら希美が言うかもしれないこと、あるいは口に出しそうなことを、希望を込めて(真似して)言ってみたのではないか。

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図書委員の真似をしていたときと同様、横位置でやや身を乗り出して興奮している様子からも、シーンの共通性は伺える。もちろんこれはひとつの見方に過ぎないが、心憎いなと思わせてくれるのは「じゃ、アイスにするか。決まりーっ」の次カットだ。

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みぞれがしばしば見せる嬉しさの感情表現としての目を瞑った表情、そして、希美の表情変化に目を向けると。

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静止画にすると瞭然、希美が一瞬、後ろにいるみぞれと似た表情をしているのだ。みぞれが希美のようなことを言い、希美がみぞれのような顔をする。台本のト書きをそのまま汲めば「ハッピーアイスクリーㇺ」がどういった言葉なのか知らない希美と、知っているみぞれの間にはまだズレがある。それでもなお、重なっていると思わせる表情のシンクロ。おそらく希美が目を閉じた時間をあと数コマ長くすれば、視覚的にわかりやすくなっただろう。何故そうしなかったかと言えば、セリフ・足音のシンクロと合わせ、「まばたきするほどの時間」だけ重なっているように感じさせたかったからではないかと思う。ラストシーンにいたっても徹底的に「非シンクロ」状態を維持するのも演出なら、一瞬にハッピーエンドの"気配"を込めるのも演出だ。互いの顔を見ていないところで同じ顔をしている――それを観客だけに伝える。けれども、足音に休止符が打たれる最後のカットは互いの顔を見合った、振り返ってみぞれを見る希美だ。

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「ビックリのみぞれ」が見ている希美の顔は、観客の想像とシンクロしているのか。ふたりのシンクロ/非シンクロが、ふたりの未来を想像する観客への問いに変わる。『リズと青い鳥』は繊細極まる、ガラス細工を思わせる作品だが、軽やかなターンで振り返った希美への解釈にはグッと体重を預けてもいい。決してひとつの答えに集約しないからだ。まばたきするほど短いシンクロに、ずっと思いを乗せて考え続けることができる。

たとえば、だ。台本のト書きには反するが、仮に希美が「ハッピーアイスクリーム」を知っていて、知らない振りをしているとすればどうか。みぞれとの出会いをよく覚えていないと言っておきながら、廊下を歩きながら思い出していたように。その場合、ズレがひとつ解消され、シンクロがひとつ重なる。表情の意味を再考する必要が出てくるし、振り返った意図にも何かを加えなければならないだろう。思えば『リズと青い鳥』は姿が見えないまま、響く足音から始まった物語だ。 見えないからこそ、足音ひとつ聞き漏らさないよう耳を澄ませる。画面には映っていない、見えない希美の顔。ピンと鳴る最後の音は、そんな見えないものへ希望をおくる、優しい視線だったのかもしれない。

*1:パッケージ特典の録音台本にも「別時系列」と明記してある。

*2:登校シーンのみぞれは行動的に希美を真似ている。

演出メモ/『かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜』12話

畠山守作品お馴染みの影中処理は『かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜』でも頻出する演出だ。とくに第12話Aパート「花火の音は聞こえない 後編」の階段下で人知れず泣くかぐやのカットは凄まじい。

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表情の変化過程や腕を顔にこすりつけるニュアンス、嗚咽に合わせた修正PANなど、細かく手の入っていることが伺える演出と芝居作画。原作の名場面をアニメの武器である動きと音を加え、さらなる名場面へと押し上げたカットなのだけど、感じ入ってしまったのはその後だ。

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T.Bする画面に合わせて登場する白銀はかぐやにより濃い影を落とす。影の中にいる人物に光が射すという描写ではなく、敢えて影を重ねる演出が採用されており、これが畠山流の解釈かと唸らされた。ストーリーの流れを完璧に汲んでいる演出だからだ。

白銀の行動過程、ポジションを考えれば分かりやすいが、かぐやのつぶやきを読んだ白銀はかぐやのあずかり知らぬところで影ながら奮闘していた。皆と花火が見れず、影の中に籠ってしまったのがかぐやなら、影で光を見せようと動いていたのが白銀なのだ。だからこそ、ふたつの影を重ねることに意味があり、二人でなら影の中から走って出られる。

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とはいえ、本作らしいのは白銀の「だったら俺が見せてやる」というセリフに合わせて例の劇伴*1で、トレンディとコメディの真ん中を突っ切るところだ。ベタベタな音響演出だが、それが似合う。

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タクシーの前で待ち構える藤原書記が、かぐやを抱きかかえてから投げ込む繋ぎも人物描写のアイディアとリズミカルなカットチェンジが小気味良く、見た目に楽しい。原作から膨らませたワンシーンだが、畠山演出の勘所は案外こういう場面にあるのかもしれない。

ラブ・ドラマティック feat. 伊原六花 (期間生産限定アニメ盤)
 

「アニゲー☆イレブン」あおきえい出演回の新房格言

BS11「アニゲー☆イレブン!」3月6日放送回に『ID: INVADED イド:インヴェイデッド』のあおきえい監督、キャラクターデザイン・総作画監督を務める碇谷敦の両名がゲスト出演。

あおき監督による絵コンテの極意を説明する(実現可能であるか/面白いか、面白くないか)コーナーや碇谷敦の格闘シーン解説など、ファン向けに踏み込んだ内容もあり、楽しく視聴していたのだけど、メモしておきたいのは【制作チームを運営する秘訣!】と銘打たれた話題で新房昭之監督の名前が出てきたときのこと。

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僕の大先輩の新房さんというアニメ監督さん、新房昭之さんという『化物語』とか『まどか☆マギカ』とかの監督さんが仰ってたんですけど、「テレビシリーズというのは穴の開いた船だと。だから出航したら沈んでいく運命なんだと。穴が開いていて皆で水をかき出して、なるべく一回出航したら止まらないで最後まで目的地にたどり着くんだって。たどり着かなくて沈没しちゃったらNGで、ちゃんとなんとかたどり着いたらOKですよ」というのを前に聞いて、本当にその通りだなっていう風に思いますね。

不思議と馴染み深い話のように思えて記憶をたぐっていたら、これは「アニメスタイル 2000年 第1号」で庵野秀明監督が語っていたものと同様の組織論だった。

何度も言うようだけど、基本的にはアニメって穴の開いた船だから。沈む前に港に着けるかという、それだけなんですよ。そのためには排水作業をどうするかという、ダメージコントロールでしかない。最悪の事態を想定して、それに対処するためのシフトを作っておくだけなんです。まあ、それは組織論の基本でね。アニメの場合、それをあまり考えていない人が多い。

庵野秀明アニメスタイル P.81

紙面には【「月刊アニメージュ」(徳間書店)90年4月号の『ふしぎの海のナディア』の取材記事でも、同様の喩え話で、アニメ制作について語っている】という注記があり、庵野監督が言う通り、都合何度か話しているようだ。なので、それが新房監督の知るところとなり(全くの別口の可能性もある)、あおき監督に伝わっていてもなんらおかしくないのだが、まさかこんな場所で庵野秀明の言葉が迫ってくるとは思ってもいなかった。ちなみに現在、日曜0時からBS日テレで『新世紀エヴァンゲリオン』が再放送されており、同日0時30分よりBS11で『ID: INVADED イド:インヴェイデッド』が放送中。面白い偶然もあるものだ。

アニメスタイル015 (メディアパルムック)

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  • 発売日: 2019/12/07
  • メディア: ムック