boogyman's memo

アニメーションと余日のメモ欄

ビデオコンテの資料性――『さよならの朝に約束の花をかざろう』

岡田麿里の描く絵コンテ」に興味があった。映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』は都合7人が絵コンテにクレジットされているが、個性派揃いの演出陣にあって目を引く絵コンテ/岡田麿里の存在感。いったいどんなコンテを、そもそもどんな絵を描いているのか。特装限定版にビデオコンテが収録されると知り、いちばん先にそれを見ようと思っていた。

さよならの朝に約束の花をかざろう』はA~Gの7パートで構成されており、掴みのアクションを見せるBパートのコンテを小林寛、農場の穏やかな生活を描いたCパートを副監督の篠原俊哉が担当し、岡田麿里と縁の深い2人が前半を受け持つ形。中盤にあたるレイリアを救出しようと動くDパートには塩谷直義(レナトが暴れるシーン)、橘正紀*1が振られ、Eパートのドレイルを引き受けたのはコアディレクター・平松禎史。終盤のメザーテが戦争を仕掛けられるFパートには乱戦、出血なんでもござれの安藤真裕が満を持して登場。その他のパートは篠原俊哉を中心に共同で描かれたものになっている。

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岡田麿里監督がコンテを描いているのはタイトル前、Bパートラストの朝日を見るくだりとFパートのマキアの髪を切るクリムなど。そして予想通りというべきか、ディタの出産も監督の手が入っている。

見どころはやはり、F220~F260のメザーテ城門が破られ、必死の奮戦を見せるエリアルと出産の痛みに耐えるディタを交互に映すシーン。これはコンテ上でもエリアル安藤真裕、マキア、ディタ/岡田麿里と分かれており、映像的・コンテ的クロスカッティング。安藤コンテの線の勢いと岡田麿里の情念の塊とも言えるカットの交差は、ビデオコンテで観ても独特の迫力がある(あの出血はやり過ぎだと思わないでもない)。

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本作のビデオコンテはト書きや台詞、尺*2が読めないかわりに、完成映像を右下に映す方式を採り、比較鑑賞がしやすくなっている。岡田コンテの画は簡素に見えて繊細だ。レイアウト、芝居を緻密にコントロールするというより、キャラクターの内面に紐付くある種の残酷さや抑えがたい情動を表現しようとしているように思える。それが完成画面にどのくらい反映されているか読み込む面白さがある一方で、ト書きの“遊び”を見つけたり、欠番を確認したりすることはできなくなってしまった。ビデオコンテの資料的デメリットがあるとすればそこだろう。

しかし、コンテ段階で想定された「時間」と「流れ」を容易に知れるというのは、他にはないメリットだ*3。製本された絵コンテを読むとき、ネックになりやすい演出家のイメージする時間感覚に対しての読解。それを完成映像と比較し、体感できるのだから貴重だ。発展させて、将来的に「ビデオコンテコメンタリー」なんてものが実装されないだろうかと考えてしまった。井上俊之原画集にコメンタリーを付けたP.A.WORKSならあるいは……「コンテに話題を絞ったコメンタリー」の需要が問題かもしれない。

*1:マキアとレイリアの再会シーン。『プリンセス・プリンシパル』の監督が“姫”のパートを担当していることになる。

*2:カット単位で秒数は表示されているが、それが元の絵コンテで指定された秒数かどうか確かめられない。

*3:「編集」を勘案しておく必要はある。