boogyman's memo

アニメーションと余日のメモ欄

『バビロン』2話の演出について

平衡感覚という言葉がある。比喩的にも使われるが、からだのバランスを敏感に察知し、それを保つ感覚のことだ。であるならば、野崎まどの同名小説をTVアニメ化した『バビロン』第2話に登場する平松絵見子こと「曲世愛」(まがせ あい)は、人の平衡感覚を失わせる能力を持った女、と言えるかもしれない。

第2話「標的」はかなり特殊なスタイルのエピソードだった。主人公である正崎善の部下・文緒厚彦が突然の自殺を遂げ、その死に疑問を持つ正崎が見つけた平松という女性。特殊と書いたのは、平松に行われる事情聴取の演出に対してだ。階段を上っているのか下りているか分からない平松の的を得ない受け答えを大胆かつ官能的に、そして意図的に「奇を衒って」描いている。

■異なる3つの画面アスペクト比/カラースクリプト(ライティング)

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 「標的」を特徴付けている最も前面的な演出は、シーンに合わせたアスペクト比の変更だろう。正崎による事件の調査と平松への聴取が交互が入る構成に対し、前者を通常のワイド画面、後者を上下黒帯の疑似的なシネマスコープサイズにしている。加えて後半では(仮定上の)回想の場面に4:3のノーマルサイズを用いて平松の性的な人物像を煽り、それぞれの光、色味に差を付けることで、文字通り色も形も定まらない印象を強調。奇怪な女という情報のみが増えていく。

 ■彷徨い、見つめる視線/クローズアップ

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平松の奇態な振る舞いの中で特に効果を上げているのが、視線の運動だ。じっと睨みつける正崎をはぐらかすように視線を彷徨わせたかと思えば柔和に、しかし底知れない視線でまっすぐ見つめてくる。それはまるで相対する人物を観察し、何かを探っているのかと思わせる視線。聴取は最終的に平松の質問を受けて終える形になるが、じつは聴取が始まった時から調べられていたのは正崎の方だったのではないか、そんな疑問を抱かせるのだ。

それを強く感じさせるのが、クローズアップのサイズ。何度もインサートされる「観察的」なクローズアップは徐々に接近し、超クローズアップと呼ばれるサイズまで寄ってくる。迫っている対象は、おそらく相手の「本質」だ。そして忘れてはならないのが視線の運動に不可欠な瞬き(目パチ)の使い方。閉じる動作そのものをカット割りの"糊代"にしたり、心に潜り込んでいく契機のように見せたりしながら、きわめつけは聴取のラストカット。

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平松と正崎のリンクした瞬き。相手の呼吸とぴったり合わせる、つまり平松のセリフの通り、「正義とは何か」を問うことが正崎の本質(作品の大テーマ)であると探り終えたかのよう。正崎は何も掴んでいないに等しいにもかかわらず、だ。非情なまでに皮肉めいている。

■方向性/遠近の逆転、混乱

富野由悠季「映像の原則」でも書かれている有名な原則のひとつに「方向性」がある。かいつまんで言えば「視線・動きの方向性そのものが意味を含んでいる」ことであり、映像表現の基礎的な(富野的といってもいい)話だ。

この『バビロン』第2話を見ても方向性は概ね整理されて始まるが、ポイントはやはり逆転のタイミング。

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3度目の聴取シーンは天井に埋め込まれた室内機のパネル越しの俯瞰でスタートし、左右の方向性のみならず、見下ろし、見上げる視点と次々に切り返し、逆転していく。視線の運動とも密接に関係しながら、複雑な方向性を編んでいくが、それに「意味があるのか」と思わせるところが肝だ。方向性が意味を持っているのならば、正崎の方向性(質問)は意味を成していない。注意を引き付ける空調の音といい、空間的対話的混乱を引き起こすシーンだ。

続いて逆転を許してしまうのは、画面サイズとライティングが通常に戻った最後の聴取。調書にサインする代わりに正崎の話を聞かせて欲しいと願い出る平松。

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扇情的にも見える平松の唇や手振りのクローズアップから方向性を入れ替え、被写体はズーム、背景は引きながらアオる変形ドリーズーム。さらには、捕まえた獲物を逃がさないかの如く迫り出してくる分割ショット。どれだけ接近したのかと思えば、当たり前だが距離は変わっておらず、縦に切られた壁の線(溝)を見ると、正崎の方に空間的余裕があるレイアウト。にもかかわらず、わざと「スペースのある檻」に入れてあげたのだと思えるほど、方向性(主導権)は逆転している。すべては知らず知らずのうちに接近を許し、懐に入り込まれてしまう心理的掌握術の演出。ひどく巧妙というほかない。

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画のアイディアにも驚かされる。性行為について訊く際どい口腔内(から撮っている風の)カット、価値観の違いを認め合うべきかを問う「首切り(合体)分割」など、主導権を握る平松の優位性をあの手この手で見せつけてくる。一見、対話のバランスを保っているようでいて、その実、正崎が既に精神的な平衡感覚を狂わされていることの証左だ。

絵コンテ・演出は、富井ななせ。ネットの情報を調べると、演出家としてのキャリアはまだ浅い様子で、そのスタイルは殆ど知られていない。第4話の絵コンテも担当し、視線に対する敏感さや会話シーンにおける画面分割、アイロニー・メタファーの一部に共通性を見い出せなくもないが、TVシリーズの場合、監督の演出方針による影響やコンテチェック、修正も入るため、出来るならもう少し仕事を眺めてから個性を感じとりたいところ(本文中で触れていない部分で言えば、平松の独特な話し方のリズム、間芝居が指定通りか否か、キャストの演技プランとの兼ね合いなど)。

曲世愛の正体を知るのが先か、富井演出の真価を見るのが先か。たしかめられる日を首を長くして待ちたい。

 

バビロン 1 ―女― (講談社タイガ)

バビロン 1 ―女― (講談社タイガ)

 

木上益治とプロレス

詳しい素性はわからない。けれど、非の打ち所がないその実力はファンならだれでも知っている――それが木上益治という人だった。

監督を務めた『MUNTO』シリーズのDVD特典でオーディオコメンタリーに出演したり、メイキング映像に顔出しをしている以外、ほとんど露出がなく*1京都アニメーションに来た経緯などをわずかに周辺のスタッフが話す程度で、多くは謎に包まれていた。

そこへスポットを当てたのが、「週刊女性」2019年10/22号(10/8発売)掲載の記事。専門学校時代から京都アニメーションに入社するまでの経緯を関係者に取材し、まとめたものだ。興味深い話ばかりだったが、個人的に気になったのはあにまる屋に所属していたときのプロレスに関する部分。

 あにまる屋は別名“野獣屋”と呼ばれる、一風変わったアニメ会社で、毎日のように近くの寿司店で飲み会を開いていたという。

「普段は口数が少なくて黙々と仕事をする木上さんでしたが、酒は飲むほうでした。

 アントニオ猪木やアニメの悪口を聞くと、暴力まではいかないけれども、ピュッと酒をかける(笑)。大友克洋さんと『AKIRA』の仕事をしたとき、絵にこだわる大友さんが殴られたという噂があってね。“だったら、あにまるの連中に違いない”という話になって、うちでは○○ということになって、木上の可能性は限りなくゼロだけど、真相は不明です(笑)」

 みんなプロレス好きだったので、蔵前の国技館などに新日本プロレスの観戦に行くことも。社屋の大家さんに頼んで福利厚生施設としてスペースを借りトレーニング器具を置いて、身体を鍛えたこともあったという。

「木上くんは、筋トレはそれほどしなかったけれども、観戦は大好き。ある夜、真っ暗な会社に忘れ物を取りに戻った社員がいて、薄暗い中で彼がプロレスのビデオを見ていたそうですよ」(本多さん)

アニメの悪口を聞くと、酒をかける

木上益治のプロレス好きというトピックは、例えば京アニスタッフブログ「THE☆アニメバカ一代」でも書かれていて、人となりを知れるおもしろい趣味だなと思っていた。

ところで、八木さん。

私は初代タイガーのデビュー戦を81年に蔵前で観戦しました。

ああ、あまりにもなつかしい…

レンズ☆熱

ここで書かれている初代タイガーのデビュー戦とは1981年4月23日に蔵前国技館で行われた伝説のタイガーマスク vs ダイナマイト・キッド戦のことだ。また、この日のメインイベントがアントニオ猪木 vs スタン・ハンセンであり、それは「週刊女性」の記事で語られている『怪物くん』へと繋がる。

 あにまる屋時代の先輩でいまもフリーで映画監督を続けている福冨博さん(69)も、木上さんのすごみを語る。

「画の線がきれいで、迷いがないのが特徴。『超人ロック』では僕が監督で、彼がレイアウターをやったんですが、画の直しはいっさいなかった。

『怪物くん』では原作にないプロレスのシーンを作って入れたけど、原作の藤子不二雄(A)さんからはまったくクレームもなかったですしね。

 彼はもともと『バットマン』や『スパイダーマン』などのアメリカンコミックに憧れてこの世界に入ってきたようです。大人向けのものも描けるし、子ども向けも描ける、数少ない天才ですよ」

画の線がきれいで迷いがない

福冨監督が話されているプロレスシーンのある『怪物くん』で有名なのは1982年2月9日放送の125話「カミキル博士とハイタ氏(前篇)」だろう。このエピソードは劇画調のプロレスラーが多数登場する異色の話数として知られ、上述の猪木やハンセンをモデルにしたキャラクターも出てくるのだ(木上益治は原画でクレジットされており、プロレスシーンを担当したと思われる)。

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アニメーター・木上益治の肉体的なアクション感覚の原点は、この辺りにある気がしてならない。 洗練されたアクションを描く一方、乱闘的なシーンを設計して賑わいのある画面を作る、というのも特徴のひとつではないかと思う。近年(京都アニメーション元請以降)の作品で関連する作品、パートをいくつか挙げてみると。

■『フルメタル・パニック? ふもっふ』(2003) 7話「 やりすぎのウォークライ」

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■『けいおん!!』(2010) 4話「修学旅行!」

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 ■『日常』(2011) 6話「日常の第六話」

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実際の動きにどこまで手を入れているかは分からないものの、木上調とも呼べるタメツメ、タイミングがあることはたしか。プロレス技の応酬となった『日常』6話は、木上益治×プロレスの集大成的な話数。元々プロレスネタの多いマンガだが、プロレス好きの血が滾ったのか、アニメ版はより細かく描写されており、鹿へのジャーマン・スープレックスは背後を取る動きといい、ダイナミックさといい、非常に臨場感あるシーンに仕上がっている。さらに言えば、蔵前で観戦したという初代タイガーマスクのデビュー戦で、タイガーが決め技に使ったのが、ジャーマン・スープレックスホールドである。描くべきして描かれたという気もするから不思議だ。

そして、『怪物くん』のプロレスシーンに見られる(福冨流)回り込み+走り作画も、形を変えて受け継がれている。

■『たまこまーけっと』(2013) 9話「歌っちゃうんだ、恋の歌」

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 ■『響け!ユーフォニアム』(2015) 12話「わたしのユーフォニアム

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この「上手くなりたい」と心の中で叫んで走り出す黄前久美子は、続けて「だれにも負けたくない」という気持ちを吐露する。それは木上益治にも通ずるものがあると思うのだ。

日本代表「白井健三」の床運動の演技に驚きました。

 「シライ」と命名されるかもしれない「後方伸身宙返り4回ひねり」

 人がこれほど高速の回転を人力のみで出来るものなのか?
私には何回ひねったのかどう回転したのかまるで確認できませんでした。

 観る力が衰えたのか、体操選手の技術が進んだのか…
どちらにせよ作画出来そうもない。

 意味不明な敗北感でテンション下がりぎみです。

シライ☆ひねり

 

三好は最近、仕事をしていて手元で進む仕事に違和感を抱くことがあります。
「これは私が描いた原画なの?…」と。

つまり、ぼんやりしていると、いつの間にか原画が上がっている…
今終わらせた仕事の過程が曖昧で、はっきりと思い出せない…
こういう症状で考えられるのは… ボケ… いやいや、そんな訳はない。

これはそう…昔、寝ている間に妖精が現れて代わりに仕事してくれないかなー、とか思ったことがあったけど、ちょうどそんな感じ…
ストレスが無くていいのだけど、でも何かおかしい。

勿論、遣り甲斐もあり充実しているのですが若い頃に感じた、バカみたいな衝動が希薄になっている… そのせいか?

何故だろうと考えた時に、あることに気が付きました。

これは技術を持った体が勝手に仕事をしているのだ、と。

体が私を蔑ろにしたことで心が仕事から離れてしまっているのだ、と。

これはまずい!
職人には絶対必要な「慣れ」あるいは「熟れ」ではありますが、気持ちの乗っていない仕事では観る人に伝わらない。

心底反省!

何とか主導権を体から取り戻して若かった頃のように「当たって砕けろ的創意工夫」を常に心掛け、仕事に向き合いたいと思います。

慣れ?☆ボケ?

 『Free!』のハイカロリーな泳ぎや『無彩限のファントム・ワールド』のリンボーダンスにも顕著なように、文章からも様々な人体の動きを観察し、追及していることが窺い知れる。何より凄いのは、常に何かと戦い続け、技術向上を怠らないプロ意識とその姿勢だ。プロレスはそんな戦うアニメーターにとって、格好の相手だったのかもしれない。

今回はプロレスを切り口に追ってみたけれど、木上益治という人の仕事の、これはほんの一部だ。まだまだ、語られていない"覆面"があるはず。シンエイ、あにまる屋時代の作品から観直して、じっくりと確かめていきたい。

 

第1話 怪物くん登場

第1話 怪物くん登場

 

*1:例外的なイベントとして、2011年に「京都アニメーション・スタッフ座談会−アニメーション制作の現場から−」に登壇している。

『ソウナンですか?』エンディングと渋谷亮介

無人島に漂着した女子高生4人のサバイバル。TVアニメ『ソウナンですか?』は悲観的な状況に置かれていながら、父親仕込みのサバイバル術を持つ鬼島ほまれを中心に、マニアックな描写を挟みつつ、女子高生らしくお喋りの尽きない無人島生活を送る一風変わった作品だ。

原作が青年誌連載ということもあって、海に潜るときなど下着姿になる場面が日常的で、ひとつ間違うと俗っぽさが先に立ってしまう作りになりかねない。本作がそうなっていないのは、何より第一に生活感を支柱にしているからだ。無人島で彼女たちはどうやって生き延びているのか。その「ある無人島の一日」をコミカルに描いたのが、絵コンテ/演出/原画/背景/撮影/編集をひとりで行った、渋谷亮介の手によるエンディングアニメーション。

エンディングはシェルター(簡易的な防護テント)の下で4人が座っているところから始まり、食料(魚、柚子)を取りに紫音以外の3人が出かけ、夕方、シェルターの前で焚火をしている紫音のもとへ3人が戻ってくる。

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本編とは絵柄が変わり、可愛らしいデフォルメのキャラクターになっているが、座り方にそれぞれの性格が反映されていたり、ワガママと思われがちな紫音が火起こしして火を守り、その中にわずかな寂しさ(ちゃんと戻ってくるか)が滲むという細かい描写が見どころ。

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ささやかな晩餐が終わると、明日香が立ち上がり歌い出し、それにつられて4人で疑似バンド。突然明日香が何か提案して、紫音と睦も同意し、ほまれも断ることなくそれに乗って最後は案外仲良く終わる流れは、この4人の関係性をよく表しているし、過酷な身の上に立たされても「娯楽」を必要とする人間の本質を突いているように思えてくる。寝姿、寝起きもおもしろい。睦と紫音は上着をかけて寝ているが、ほまれと明日香はそのまま。しっかり者のほまれと陸が先に起きて、残りの2人を起こす。座り方と同じく、4人の性格的違いを定点カメラで切り取っているわけだ。

全12話の中で、エンディングにもいくつかバリエーションがある。「柚子温泉」回の第8話「オアシス発見!?」では食料班の3人が全員柚子を手に帰ってくるパターン。

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柚子が沢山あるのだから、また温泉に行こうと紫音や明日香が言いだして、ほまれも強く言えず、結局一緒に来てしまうような展開はありそうだし、明日香が「死んだ」ネタのあった話だからか、明日香の流され方が『犬神家の一族』で有名な犬神佐清(スケキヨ)のパロディ。カメラに寄って並ぶ最後の絵も柚子を頭に乗せた紫音と海藻の垂れた明日香は表情が通常と変わっている。

そして、このアニメーションに欠かせないのがエンディングテーマである安野希世乃「生きる」。メロディといい、歌詞といい、ぴったりというほかないが、第9話「ほまれのパパ」はイントロを先に流してエンディングへ突入する、いわゆる「聖母たちのララバイ方式」(『シティーハンター』式と言えば馴染みがいいかもしれない)が採用されていた。最後のセリフである「ファザコンかな?」からシームレスに歌が始まる繋ぎはじつに気持ちいい。

最終回「水の補給方法」では、エンディングアニメーションの代わりに「生きる」のロングバージョンをバックにした「帰ってきたいつもの日々」。ここでは戻ってきた紫音がいかだから降りて、自分の足で島の土を踏む。つまり「この島で皆と一緒に生きていく」という(原作からの補完的)描写が感動的。また、父親の教えを絶対の信条にしてきたほまれがそれに従わなかったことも、もうひとつの「生きる」だ。

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渋谷亮介は最終回を含む3,4,7,11,12話で絵コンテ・演出、8話で演出を担当し、エンディングだけでなく、本編でも存在感を発揮。とぼけた風の崩し絵があったかと思えば、11話の棒高跳びのような作画的カロリーを使ったパートまで、驚きのある画や動きが度々見られ、宝探しの気分で楽しませてもらった。以後、注目してみたい。

 

感想/『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -』

ヴァイオレット・エヴァーガーデン。考えてみると、これは潔いタイトルだ。名は体を表すという言葉があるが、本作に関して言えばTVシリーズの頃から、名前に物語が宿っている。名を呼ぶことが、ドラマなのだ。

イザベラ・ヨークことエイミー・バートレットとテイラー・バートレット。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -』は生き別れになったこの姉妹が主人公となり、ヴァイオレットの助けを借りて手紙を書き、互いの絆を確かめる。そして名を呼ぶことで永遠の絆を胸に刻む。話としては慎ましく思えるほどシンプルで、難解な部分は殆どない。エイミーとテイラーの心情に寄り添い、喜怒哀楽を感受する、温かみのある作品に仕上がっている。

演出上のモチーフも掴みやすい。冒頭から登場する自由に羽ばたく鳥や空に伸ばされた手は、幾度となく反復され、イザベラの通う牢獄のような女学校や戦争で孤児となった境遇と対比的に重ねられている。けれど目を凝らしてみつめると、モチーフは決して単一のものではなく、それぞれが有機的に繋がれていることに気づく。

例えば、手から見てみよう。イザベラの手は初対面でこそヴァイオレットの義手を払いのけたが、距離が縮まった後はその手を何よりも信頼するようになる。そしてイザベラに触れられたヴァイオレットの手はテイラーの髪を梳き、手を添え、手紙を書く手助けをする。手のモチーフは、髪のモチーフと繋がり、髪は風になびく。風は鳥を羽ばたかせ、二人の名前を運ぶ。エイミーとテイラーを隔てていたものを取り払い、自由にするこのモチーフの連なりは非常に美しい。人物の仕草や自然現象を活用し、ドラマを編む。京都アニメーションでヴィヴィッドな演出が注目されてきた藤田春香監督の実力が伺えるところだ。

また、髪のモチーフとも関係するが、個人的に気になったのはイザベラの髪型。長い前髪が一筋、顔にかかっているデザインで、イザベラ・ヨークとエイミー・バートレット、二つの名前/顔を持つ少女の印、あるいは"分かたれた"ことをを象徴するように見える。

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浴室に置かれた蝋燭越しのショットはそれが上手く演出された一例だ。前半のイザベラ編は、天蓋付ベッドの支柱を使ったレイアウトに代表される、拒絶(境界)を示唆するカットが多く、閉鎖的な舞台のさらに内側に閉ざされたイザベラの心があるように描かれている。その心の囲いが破られるのはヴァイオレットが孤児であったことを打ち明けてから。しかしヴァイオレットが寄り添うイザベラ・ヨークとは別の、エイミー・バートレットの心は穿たれたまま。顔を分かつ前髪は、そんな心情をあらわしたものに思えた。

ライデンの街でテイラーが配達人をする後半で、ヴァイオレットがテイラーの髪を梳かし、二つ編みではなく、三つ編みなら解けないというのは、前半から印象的だった髪というモチーフを使った、分かたれた人であり、名前に対する答えだろう。二人を結ぶのは、二人の髪に触れたヴァイオレットしかいないのだ(だからこそ、鏡の前でヴァイオレットがイザベラの前髪に触れてやるシーンの持つ意味は大きい)。

関連して、テイラーが大切にしているクマのぬいぐるみにも、ちょっとした隠し味がある。よく見るとボタンの色が赤と緑、つまりイザベラとヴァイオレットのブローチの色になっている。もちろんこれは、ヴァイオレットに出会う前にエイミーが作ってあげたぬいぐるみだから、偶然なのだけど、それが必然だったかもしれないと思わせるところが、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品の持つ優しさだろう。

何気なく目に留まるディテールやモチーフに、光と色に、作り手の想いを読む。これは、そんな見方をしたい映画だ。

 


『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -』予告