boogyman's memo

アニメーションと余日のメモ欄

『ソウナンですか?』エンディングと渋谷亮介

無人島に漂着した女子高生4人のサバイバル。TVアニメ『ソウナンですか?』は悲観的な状況に置かれていながら、父親仕込みのサバイバル術を持つ鬼島ほまれを中心に、マニアックな描写を挟みつつ、女子高生らしくお喋りの尽きない無人島生活を送る一風変わった作品だ。

原作が青年誌連載ということもあって、海に潜るときなど下着姿になる場面が日常的で、ひとつ間違うと俗っぽさが先に立ってしまう作りになりかねない。本作がそうなっていないのは、何より第一に生活感を支柱にしているからだ。無人島で彼女たちはどうやって生き延びているのか。その「ある無人島の一日」をコミカルに描いたのが、絵コンテ/演出/原画/背景/撮影/編集をひとりで行った、渋谷亮介の手によるエンディングアニメーション。

エンディングはシェルター(簡易的な防護テント)の下で4人が座っているところから始まり、食料(魚、柚子)を取りに紫音以外の3人が出かけ、夕方、シェルターの前で焚火をしている紫音のもとへ3人が戻ってくる。

f:id:tatsu2:20190930044812p:plain

f:id:tatsu2:20190930045036p:plain

本編とは絵柄が変わり、可愛らしいデフォルメのキャラクターになっているが、座り方にそれぞれの性格が反映されていたり、ワガママと思われがちな紫音が火起こしして火を守り、その中にわずかな寂しさ(ちゃんと戻ってくるか)が滲むという細かい描写が見どころ。

f:id:tatsu2:20190930050253p:plain

f:id:tatsu2:20190930050306p:plain

f:id:tatsu2:20190930050319p:plain

ささやかな晩餐が終わると、明日香が立ち上がり歌い出し、それにつられて4人で疑似バンド。突然明日香が何か提案して、紫音と睦も同意し、ほまれも断ることなくそれに乗って最後は案外仲良く終わる流れは、この4人の関係性をよく表しているし、過酷な身の上に立たされても「娯楽」を必要とする人間の本質を突いているように思えてくる。寝姿、寝起きもおもしろい。睦と紫音は上着をかけて寝ているが、ほまれと明日香はそのまま。しっかり者のほまれと陸が先に起きて、残りの2人を起こす。座り方と同じく、4人の性格的違いを定点カメラで切り取っているわけだ。

全12話の中で、エンディングにもいくつかバリエーションがある。「柚子温泉」回の第8話「オアシス発見!?」では食料班の3人が全員柚子を手に帰ってくるパターン。

f:id:tatsu2:20190930053907p:plain

f:id:tatsu2:20190930053921p:plain

f:id:tatsu2:20190930053936p:plain

柚子が沢山あるのだから、また温泉に行こうと紫音や明日香が言いだして、ほまれも強く言えず、結局一緒に来てしまうような展開はありそうだし、明日香が「死んだ」ネタのあった話だからか、明日香の流され方が『犬神家の一族』で有名な犬神佐清(スケキヨ)のパロディ。カメラに寄って並ぶ最後の絵も柚子を頭に乗せた紫音と海藻の垂れた明日香は表情が通常と変わっている。

そして、このアニメーションに欠かせないのがエンディングテーマである安野希世乃「生きる」。メロディといい、歌詞といい、ぴったりというほかないが、第9話「ほまれのパパ」はイントロを先に流してエンディングへ突入する、いわゆる「聖母たちのララバイ方式」(『シティーハンター』式と言えば馴染みがいいかもしれない)が採用されていた。最後のセリフである「ファザコンかな?」からシームレスに歌が始まる繋ぎはじつに気持ちいい。

最終回「水の補給方法」では、エンディングアニメーションの代わりに「生きる」のロングバージョンをバックにした「帰ってきたいつもの日々」。ここでは戻ってきた紫音がいかだから降りて、自分の足で島の土を踏む。つまり「この島で皆と一緒に生きていく」という(原作からの補完的)描写が感動的。また、父親の教えを絶対の信条にしてきたほまれがそれに従わなかったことも、もうひとつの「生きる」だ。

f:id:tatsu2:20190930063235p:plain

f:id:tatsu2:20190930063303p:plain

渋谷亮介は最終回を含む3,4,7,11,12話で絵コンテ・演出、8話で演出を担当し、エンディングだけでなく、本編でも存在感を発揮。とぼけた風の崩し絵があったかと思えば、11話の棒高跳びのような作画的カロリーを使ったパートまで、驚きのある画や動きが度々見られ、宝探しの気分で楽しませてもらった。以後、注目してみたい。

 

感想/『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -』

ヴァイオレット・エヴァーガーデン。考えてみると、これは潔いタイトルだ。名は体を表すという言葉があるが、本作に関して言えばTVシリーズの頃から、名前に物語が宿っている。名を呼ぶことが、ドラマなのだ。

イザベラ・ヨークことエイミー・バートレットとテイラー・バートレット。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -』は生き別れになったこの姉妹が主人公となり、ヴァイオレットの助けを借りて手紙を書き、互いの絆を確かめる。そして名を呼ぶことで永遠の絆を胸に刻む。話としては慎ましく思えるほどシンプルで、難解な部分は殆どない。エイミーとテイラーの心情に寄り添い、喜怒哀楽を感受する、温かみのある作品に仕上がっている。

演出上のモチーフも掴みやすい。冒頭から登場する自由に羽ばたく鳥や空に伸ばされた手は、幾度となく反復され、イザベラの通う牢獄のような女学校や戦争で孤児となった境遇と対比的に重ねられている。けれど目を凝らしてみつめると、モチーフは決して単一のものではなく、それぞれが有機的に繋がれていることに気づく。

例えば、手から見てみよう。イザベラの手は初対面でこそヴァイオレットの義手を払いのけたが、距離が縮まった後はその手を何よりも信頼するようになる。そしてイザベラに触れられたヴァイオレットの手はテイラーの髪を梳き、手を添え、手紙を書く手助けをする。手のモチーフは、髪のモチーフと繋がり、髪は風になびく。風は鳥を羽ばたかせ、二人の名前を運ぶ。エイミーとテイラーを隔てていたものを取り払い、自由にするこのモチーフの連なりは非常に美しい。人物の仕草や自然現象を活用し、ドラマを編む。京都アニメーションでヴィヴィッドな演出が注目されてきた藤田春香監督の実力が伺えるところだ。

また、髪のモチーフとも関係するが、個人的に気になったのはイザベラの髪型。長い前髪が一筋、顔にかかっているデザインで、イザベラ・ヨークとエイミー・バートレット、二つの名前/顔を持つ少女の印、あるいは"分かたれた"ことをを象徴するように見える。

 f:id:tatsu2:20190921011512p:plain

浴室に置かれた蝋燭越しのショットはそれが上手く演出された一例だ。前半のイザベラ編は、天蓋付ベッドの支柱を使ったレイアウトに代表される、拒絶(境界)を示唆するカットが多く、閉鎖的な舞台のさらに内側に閉ざされたイザベラの心があるように描かれている。その心の囲いが破られるのはヴァイオレットが孤児であったことを打ち明けてから。しかしヴァイオレットが寄り添うイザベラ・ヨークとは別の、エイミー・バートレットの心は穿たれたまま。顔を分かつ前髪は、そんな心情をあらわしたものに思えた。

ライデンの街でテイラーが配達人をする後半で、ヴァイオレットがテイラーの髪を梳かし、二つ編みではなく、三つ編みなら解けないというのは、前半から印象的だった髪というモチーフを使った、分かたれた人であり、名前に対する答えだろう。二人を結ぶのは、二人の髪に触れたヴァイオレットしかいないのだ(だからこそ、鏡の前でヴァイオレットがイザベラの前髪に触れてやるシーンの持つ意味は大きい)。

関連して、テイラーが大切にしているクマのぬいぐるみにも、ちょっとした隠し味がある。よく見るとボタンの色が赤と緑、つまりイザベラとヴァイオレットのブローチの色になっている。もちろんこれは、ヴァイオレットに出会う前にエイミーが作ってあげたぬいぐるみだから、偶然なのだけど、それが必然だったかもしれないと思わせるところが、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品の持つ優しさだろう。

何気なく目に留まるディテールやモチーフに、光と色に、作り手の想いを読む。これは、そんな見方をしたい映画だ。

 


『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -』予告

演出メモ/『ロード・エルメロイII世の事件簿 -魔眼蒐集列車 Grace note-』6話

『ロード・エルメロイII世の事件簿 -魔眼蒐集列車 Grace note-』第6話は恒例のあおきえい絵コンテ回。偶然なのか狙っているのか、TROYCAの加藤誠監督作品(『櫻子さんの足下には死体が埋まっている』『やがて君になる』)にあおきえいがコンテ参加するときは決まって6話だ。パトレイバーの松井刑事なら、TROYCAのマニア向けサービスと読むかもしれない*1

今回メモしておきたいのは、主に構図感覚。Aパートで多用されたシンメトリー、ダッチアングル、真俯瞰など左右のバランスや対角線を意識した構図が、まるで魔術的に作用していたかのような錯覚を起こさせる。「潤沢すぎて過剰な反応を呼んだ結界術式」という話の肝を画面構成でなぞらえ、見せていたわけだ。

f:id:tatsu2:20190812122544p:plain

f:id:tatsu2:20190812122632p:plain

シンメトリックな人物配置、水平・垂直を意識したカメラアングルで印象付けていく演出は、過去の「TROYCA6話」でもお馴染み。

f:id:tatsu2:20190812125302p:plain

f:id:tatsu2:20190812125355p:plain

最近よく使われている90度傾けたダッチアングルは、折り目正しい画面が続いた後だと一層驚かされる。

また、TROYCA以前のTYPE-MOON関連作を振り返っても、あおきえい節のシンメトリー構図は見受けられ、例えば『Fate/Zero』第1話の会話シーン。

f:id:tatsu2:20190812130316p:plain

構図の狙いとしては同じかもしれないが、天秤が揺らぐような取引だからか、ここでは中心に配置された人物・オブジェクトが効果を上げている。そして、より徹底的に"対称性"にこだわった作品と言えば、『空の境界 未来福音 extra chorus』(2013)*2の一幕「1998年10月 02_daylight -October, 1998-」を挙げないわけにはいかない。

f:id:tatsu2:20190812132130p:plain

f:id:tatsu2:20190813170742p:plain

宮月理々栖と安藤由子のふたりを対称の存在として描き、そこへ非対称であり、また対称でもある浅上藤乃を関与させ、未来と過去を映し出していく。

f:id:tatsu2:20190812134417p:plain

f:id:tatsu2:20190812134445p:plain

時間的存在的画面的な対称を編み込んだこの一篇は、「シンメトリー」というコンセプトが感情を揺さぶり、強く訴えかける。それが指し示す先にあるのは祈りだ。対称であるからこそ気づける真意。画面の構図と物語の構図が重なり合い、同じ方向を見つめるラストシーンは美しく、あおきえい演出の正統を観た思いになる。

未来福音 extra chorus』に触れたついでに「猫」の話もしておこう。

幹也が式の部屋に一匹の猫を預けて出掛ける「1998年8月 01_feline -August, 1998-」、グレイが餌付けしてしまった野良猫に懐かれた『ロード・エルメロイII世の事件簿 -魔眼蒐集列車 Grace note-』第0話、TYPE-MOON作品に携わる宿命というべきか、あおきえいは意外と猫に縁がある。

f:id:tatsu2:20190812151404p:plain

そもそもが「ネコアルク」に代表されるように、古くから猫をモデルにしたキャラクターは数え切れず(式もそれっぽい習性がある)、TYPE-MOONのアニメ作品を演出する以上、当然だという気もするのだけれど、動物としての猫、それも黒猫を扱ったエピソードに関わっているのは見逃せない。

というのも、よくよく観直してみると、『やがて君になる』6話にも登場していたからだ。

f:id:tatsu2:20190812154135p:plain

侑が燈子を連れて河原に行く途中の通学路、塀の上にいる黒猫がふたりを見ている。人物の映っていないオフ台詞で進行していくパートのワンカットなので、深い意味を求めるものではないが、次にクレジットされた仕事が『ロード・エルメロイII世の事件簿 』0話ということを考えると、なかなかおもしろい。佐山聖子*3新海誠*4に続く"猫"演出家がじつは誕生しているのかもしれない。

 

*1:マンガ版終盤の「おれは偶然も2回までは許すことにしてるんだ。ただし3つも重なったらこいつは偶然とは思えん、何らかの必然があるんだ」というセリフから。

*2:あおきえいは監督・脚色・コンテでクレジットされている。

*3:『同居人はひざ、時々、頭のうえ。』『ふらいんぐうぃっち』『とある魔術の禁書目録III』など、猫の出てくるエピソードを数多く担当し、たしかな観察眼と愛情ある仕草の再現性は随一。

*4:短編アニメーション『猫の集会』を制作していたり、仕事場で猫を飼っていたりと、猫にちなんだ話に事欠かない。

東京、選択、反射――『天気の子』感想

新海誠最新作『天気の子』は身も蓋もなく言えば、「東京」の映画だ。「東京」と「新海誠」の関係は過去の作品群を振り返っても明らか。時に憧憬として、時に焦燥として、そして交差する場所として扱われている。もしかしたら、新海誠という人を映す鏡のような場所なのかもしれない。

f:id:tatsu2:20190725051931p:plain

『天気の子』の始まり方で印象的だったのも、じつはそれだ。アバンタイトル、病室で母親の横に座る陽菜が雨に濡れた窓ガラスに映り込み、その奥には東京の街と海、雨雲が広がる。

反射/映り込みをファーストシーンに持ってくる演出は、新海作品ではお馴染みと言える。『秒速5センチメートル』や入口を同じにした『言の葉の庭』、また『雲のむこう、約束の場所』にも同様のカットがあり、いずれも「東京」を舞台に"反射"している。

f:id:tatsu2:20190725052105p:plain

そこに映っているものはそれぞれの「東京」を象徴するものといっていい。だから予告(予報)にもあった陽菜のカットがアバンで使われていることには驚いた。最初からすべて示唆していたわけだ。

本作で描かれている東京は、猥雑で路地裏の匂いがする東京だ。もちろん、雨上がりの光の筋がアスファルトを照らし、街を美しく彩る瞬間はある。だが目に留まるのは、快適さの陰で回り続ける室外機であったり、空を遮る電線であったり、廃ビルの屋上に設置された鉄錆の浮いた手すり。おもしろいことに、ヤクザ風の事務所まで出てくる。世間知らずの少年が踏み込みすぎてしまった、という体であっさり処理されているが、今までの新海作品で最もアングラな部分に目を向け、立ち入ったことは間違いない。それを帆高の目から見た東京の現実として対面させ、行き過ぎれば暴力による報復が待っていると描く。そこに登場する拳銃というガジェットは、そんな暗いところが零れ落ちてきたある種の「お守り」だった。しかし帆高は陽菜に咎められると、人を殺しかねないことの重大さに気が付いて、反射的に投げ捨てる。ドラマの転換点だ。我が身を守るため肌身離さず持っていたものを投げ捨て、新たに守るべき人と出会う。そして東京にやって来て初めての「晴れ」を体験する。つまり、帆高は「東京」への抑止力を捨て、彼女と彼女の笑顔を選んだのだ。

何を選ぶかというドラマとして考えてみると、帆高を追い出した後、夏美に漏らす須賀のつぶやきは社会規範や現実に慣れ過ぎた、「大人」の心境を薄暗く表現したセリフに聞こえてくる。

人間歳取るとさあ。大事なものの順番を、入れ替えられなくなるんだよな。

娘とまた暮らすためには帆高を追い出すしかなかった。だが翌朝、須賀は半地下にある事務所の窓の外に雨水が大量に溜まって水圧が掛かっているにもかかわらず、強引に開けてしまう。水流で後味の悪さ、罪悪感を洗い流したかったのか、真意は分からない。ただ少しだけ、順番を入れ替えたことは事実だ。賢明な判断のできる「大人」ならやらない選択をしたのだから。

須賀の姪である夏美もそうだ。就活にマイナスになろうが構わず、警察署から逃げ出す帆高を助け、パトカーとカーチェイス。陽菜に人柱のことを明かした罪滅ぼしの気持ちがあったのだとしても、やり過ぎであることには変わりない。しかし、その表情はずっと自分を縛っていたものを振り払って駆け抜ける清々しさに溢れている。さらに凪の『君の名は。』的な男女入れ替え工作は、そんな大人たちが必死で大人であることを取っ払おうとしているときに容易く大人の目を欺く、どちらが大人か分からないしたたかな作戦だった。

f:id:tatsu2:20190725053044p:plain

そうした状況の中で、帆高はもう一度拳銃を握り、「大人」の須賀に向かって銃口を突き付ける。帆高からすれば、嫌悪感さえ抱いて捨てたものを拾い直し、須賀からしてみればどうしようもなくなって見捨てたものに拳銃を向けられている格好だ。そして帆高は拳銃を警官の目を引くため投げ捨て、須賀は帆高を今度こそ見捨てずに助ける。ドラマが激しく交錯するポイントだ。帆高は当の陽菜に気持ち悪いと言われた「東京」「大人」への抑止力を手にしてでも陽菜のもとへ行きたい。けれど、それは手にしてはいけないものを手にしてしまった、ルールを破ったとも言える。手錠が掛けられるのはその罰かもしれない。しかしすぐに手放し、捨て去った。だからその先を「大人」であることを捨てた「大人」が引き受ける。
拳銃、指輪、手錠といった小道具と様々な心情が入り組んだ選択のドラマだ。ここまで見せておいて、陽菜に「自分のために願って」と帆高は言う。晴れなくたっていいと叫ぶのだ。

エピローグは、そんな選択に対して強く宣言するための儀式的な舞台だ。帆高の言葉は、改めて映画を鑑賞して噛み締めることができた。これには少し説明がいる。そもそも新海作品において、「大丈夫」とは何だったのだろうか。主だったセリフを挙げてみよう。

f:id:tatsu2:20190725054507p:plain

20世紀のエアメイルみたいなものだよ。うん、だいじょーぶ! 

何が大丈夫なんだ。

ほしのこえ』(2002)

f:id:tatsu2:20190725054934p:plain

大丈夫だよ。目が覚めたんだから。これから全部また……。

雲のむこう、約束の場所』(2004)

f:id:tatsu2:20190725055958p:plain

貴樹くんは……きっと、この先も大丈夫だと思う。ぜったい!

秒速5センチメートル』(2007)

f:id:tatsu2:20190725061556p:plain

それは人違いだよ。だって落ちたりしないもの。大丈夫、違うもん。心配しないで。

星を追う子ども』(2011)

f:id:tatsu2:20190725060434p:plain

……ねえ、わたし。……まだ、大丈夫なのかな……?

言の葉の庭』(2013)

f:id:tatsu2:20190725062408p:plain

君の名前は、三葉。……大丈夫、覚えてる! 三葉……。みつは、みつは、名前は三葉! きみの名前は……。

君の名は。』(2016)

恣意的に抽出してあるため、実際にはもっと使われている。共通しているニュアンスは喪失に立ち会う、あるいは予感する、そうした状況で出てくる言葉だということ。劇場作品すべてで、だ。それが分かって、もう一度観てみると、ある感情が湧きあがってきた。
あの『君の名は。』のラストシーン、すれ違う二人にミカコが、ノボルが、貴樹が、明里が重なって見えた。新海誠の世界で届かなかった彼ら、彼女たちが二人に映り込んでいるように思えてならなかった。帆高の言葉が反射する先もそう、喪失を目の前にして「大丈夫」といった彼と彼女。そこでようやく、ああ、『君の名は。』で示したディスコミュニケーションの向こう、ダイアローグの出口に立って、さらに進もうとしているんだなと伝わってきた。雨の降り続く東京で、最後に選択し、反射する言葉。

「僕たちは、大丈夫だ」

新海作品でこんなにも力強く、祈りを捧げる少女に向かってもう手を離さない、共に生きていくと宣言する少年が出てくるとは、10年前の自分に言っても信じないだろう。 まだしばらくの間、噛み締めていようと思う。

最後にもうひとり、「大丈夫」にたどり着いた人物について書いておきたい。コミカライズ版『秒速5センチメートル』最終話「空と海の詩」に登場する、27歳になった「コスモナウト」の主人公、花苗だ。帆高より遠い種子島から貴樹を探しに東京にやってきた花苗は戸惑い、迷いながら、貴樹へ繋がる"チケット"をもらう。そのとき、掛かってきた電話の相手に対して「大丈夫」という言葉で返答し、自分自身と向き合い、歩き出していく。このオリジナルエピソードは、新海誠という作家に秘められていたコミュニケーションの可能性を掬い取り、先んじて描いていたのかもしれない。空と海に囲まれた島から東京を眺め、大切なものを追いかける帆高と花苗。東京で口にする「大丈夫」の意味。『天気の子』鑑賞後に、読み返したくなる一篇だ。