boogyman's memo

アニメーションと余日のメモ欄

木上益治とプロレス

詳しい素性はわからない。けれど、非の打ち所がないその実力はファンならだれでも知っている――それが木上益治という人だった。

監督を務めた『MUNTO』シリーズのDVD特典でオーディオコメンタリーに出演したり、メイキング映像に顔出しをしている以外、ほとんど露出がなく*1京都アニメーションに来た経緯などをわずかに周辺のスタッフが話す程度で、多くは謎に包まれていた。

そこへスポットを当てたのが、「週刊女性」2019年10/22号(10/8発売)掲載の記事。専門学校時代から京都アニメーションに入社するまでの経緯を関係者に取材し、まとめたものだ。興味深い話ばかりだったが、個人的に気になったのはあにまる屋に所属していたときのプロレスに関する部分。

 あにまる屋は別名“野獣屋”と呼ばれる、一風変わったアニメ会社で、毎日のように近くの寿司店で飲み会を開いていたという。

「普段は口数が少なくて黙々と仕事をする木上さんでしたが、酒は飲むほうでした。

 アントニオ猪木やアニメの悪口を聞くと、暴力まではいかないけれども、ピュッと酒をかける(笑)。大友克洋さんと『AKIRA』の仕事をしたとき、絵にこだわる大友さんが殴られたという噂があってね。“だったら、あにまるの連中に違いない”という話になって、うちでは○○ということになって、木上の可能性は限りなくゼロだけど、真相は不明です(笑)」

 みんなプロレス好きだったので、蔵前の国技館などに新日本プロレスの観戦に行くことも。社屋の大家さんに頼んで福利厚生施設としてスペースを借りトレーニング器具を置いて、身体を鍛えたこともあったという。

「木上くんは、筋トレはそれほどしなかったけれども、観戦は大好き。ある夜、真っ暗な会社に忘れ物を取りに戻った社員がいて、薄暗い中で彼がプロレスのビデオを見ていたそうですよ」(本多さん)

アニメの悪口を聞くと、酒をかける

木上益治のプロレス好きというトピックは、例えば京アニスタッフブログ「THE☆アニメバカ一代」でも書かれていて、人となりを知れるおもしろい趣味だなと思っていた。

ところで、八木さん。

私は初代タイガーのデビュー戦を81年に蔵前で観戦しました。

ああ、あまりにもなつかしい…

レンズ☆熱

ここで書かれている初代タイガーのデビュー戦とは1981年4月23日に蔵前国技館で行われた伝説のタイガーマスク vs ダイナマイト・キッド戦のことだ。また、この日のメインイベントがアントニオ猪木 vs スタン・ハンセンであり、それは「週刊女性」の記事で語られている『怪物くん』へと繋がる。

 あにまる屋時代の先輩でいまもフリーで映画監督を続けている福冨博さん(69)も、木上さんのすごみを語る。

「画の線がきれいで、迷いがないのが特徴。『超人ロック』では僕が監督で、彼がレイアウターをやったんですが、画の直しはいっさいなかった。

『怪物くん』では原作にないプロレスのシーンを作って入れたけど、原作の藤子不二雄(A)さんからはまったくクレームもなかったですしね。

 彼はもともと『バットマン』や『スパイダーマン』などのアメリカンコミックに憧れてこの世界に入ってきたようです。大人向けのものも描けるし、子ども向けも描ける、数少ない天才ですよ」

画の線がきれいで迷いがない

福冨監督が話されているプロレスシーンのある『怪物くん』で有名なのは1982年2月9日放送の125話「カミキル博士とハイタ氏(前篇)」だろう。このエピソードは劇画調のプロレスラーが多数登場する異色の話数として知られ、上述の猪木やハンセンをモデルにしたキャラクターも出てくるのだ(木上益治は原画でクレジットされており、プロレスシーンを担当したと思われる)。

f:id:tatsu2:20191014170358p:plain

f:id:tatsu2:20191014170413p:plain

f:id:tatsu2:20191014170523g:plain

アニメーター・木上益治の肉体的なアクション感覚の原点は、この辺りにある気がしてならない。 洗練されたアクションを描く一方、乱闘的なシーンを設計して賑わいのある画面を作る、というのも特徴のひとつではないかと思う。近年(京都アニメーション元請以降)の作品で関連する作品、パートをいくつか挙げてみると。

■『フルメタル・パニック? ふもっふ』(2003) 7話「 やりすぎのウォークライ」

f:id:tatsu2:20191014173224p:plain

f:id:tatsu2:20191014173400g:plain

■『けいおん!!』(2010) 4話「修学旅行!」

f:id:tatsu2:20191014180403g:plain

 ■『日常』(2011) 6話「日常の第六話」

f:id:tatsu2:20191014182112p:plain

f:id:tatsu2:20191014183125g:plain

実際の動きにどこまで手を入れているかは分からないものの、木上調とも呼べるタメツメ、タイミングがあることはたしか。プロレス技の応酬となった『日常』6話は、木上益治×プロレスの集大成的な話数。元々プロレスネタの多いマンガだが、プロレス好きの血が滾ったのか、アニメ版はより細かく描写されており、鹿へのジャーマン・スープレックスは背後を取る動きといい、ダイナミックさといい、非常に臨場感あるシーンに仕上がっている。さらに言えば、蔵前で観戦したという初代タイガーマスクのデビュー戦で、タイガーが決め技に使ったのが、ジャーマン・スープレックスホールドである。描くべきして描かれたという気もするから不思議だ。

そして、『怪物くん』のプロレスシーンに見られる(福冨流)回り込み+走り作画も、形を変えて受け継がれている。

■『たまこまーけっと』(2013) 9話「歌っちゃうんだ、恋の歌」

f:id:tatsu2:20191014191644g:plain

 ■『響け!ユーフォニアム』(2015) 12話「わたしのユーフォニアム

f:id:tatsu2:20191014192533g:plain

この「上手くなりたい」と心の中で叫んで走り出す黄前久美子は、続けて「だれにも負けたくない」という気持ちを吐露する。それは木上益治にも通ずるものがあると思うのだ。

日本代表「白井健三」の床運動の演技に驚きました。

 「シライ」と命名されるかもしれない「後方伸身宙返り4回ひねり」

 人がこれほど高速の回転を人力のみで出来るものなのか?
私には何回ひねったのかどう回転したのかまるで確認できませんでした。

 観る力が衰えたのか、体操選手の技術が進んだのか…
どちらにせよ作画出来そうもない。

 意味不明な敗北感でテンション下がりぎみです。

シライ☆ひねり

 

三好は最近、仕事をしていて手元で進む仕事に違和感を抱くことがあります。
「これは私が描いた原画なの?…」と。

つまり、ぼんやりしていると、いつの間にか原画が上がっている…
今終わらせた仕事の過程が曖昧で、はっきりと思い出せない…
こういう症状で考えられるのは… ボケ… いやいや、そんな訳はない。

これはそう…昔、寝ている間に妖精が現れて代わりに仕事してくれないかなー、とか思ったことがあったけど、ちょうどそんな感じ…
ストレスが無くていいのだけど、でも何かおかしい。

勿論、遣り甲斐もあり充実しているのですが若い頃に感じた、バカみたいな衝動が希薄になっている… そのせいか?

何故だろうと考えた時に、あることに気が付きました。

これは技術を持った体が勝手に仕事をしているのだ、と。

体が私を蔑ろにしたことで心が仕事から離れてしまっているのだ、と。

これはまずい!
職人には絶対必要な「慣れ」あるいは「熟れ」ではありますが、気持ちの乗っていない仕事では観る人に伝わらない。

心底反省!

何とか主導権を体から取り戻して若かった頃のように「当たって砕けろ的創意工夫」を常に心掛け、仕事に向き合いたいと思います。

慣れ?☆ボケ?

 『Free!』のハイカロリーな泳ぎや『無彩限のファントム・ワールド』のリンボーダンスにも顕著なように、文章からも様々な人体の動きを観察し、追及していることが窺い知れる。何より凄いのは、常に何かと戦い続け、技術向上を怠らないプロ意識とその姿勢だ。プロレスはそんな戦うアニメーターにとって、格好の相手だったのかもしれない。

今回はプロレスを切り口に追ってみたけれど、木上益治という人の仕事の、これはほんの一部だ。まだまだ、語られていない"覆面"があるはず。シンエイ、あにまる屋時代の作品から観直して、じっくりと確かめていきたい。

 

第1話 怪物くん登場

第1話 怪物くん登場

 

*1:例外的なイベントとして、2011年に「京都アニメーション・スタッフ座談会−アニメーション制作の現場から−」に登壇している。

『ソウナンですか?』エンディングと渋谷亮介

無人島に漂着した女子高生4人のサバイバル。TVアニメ『ソウナンですか?』は悲観的な状況に置かれていながら、父親仕込みのサバイバル術を持つ鬼島ほまれを中心に、マニアックな描写を挟みつつ、女子高生らしくお喋りの尽きない無人島生活を送る一風変わった作品だ。

原作が青年誌連載ということもあって、海に潜るときなど下着姿になる場面が日常的で、ひとつ間違うと俗っぽさが先に立ってしまう作りになりかねない。本作がそうなっていないのは、何より第一に生活感を支柱にしているからだ。無人島で彼女たちはどうやって生き延びているのか。その「ある無人島の一日」をコミカルに描いたのが、絵コンテ/演出/原画/背景/撮影/編集をひとりで行った、渋谷亮介の手によるエンディングアニメーション。

エンディングはシェルター(簡易的な防護テント)の下で4人が座っているところから始まり、食料(魚、柚子)を取りに紫音以外の3人が出かけ、夕方、シェルターの前で焚火をしている紫音のもとへ3人が戻ってくる。

f:id:tatsu2:20190930044812p:plain

f:id:tatsu2:20190930045036p:plain

本編とは絵柄が変わり、可愛らしいデフォルメのキャラクターになっているが、座り方にそれぞれの性格が反映されていたり、ワガママと思われがちな紫音が火起こしして火を守り、その中にわずかな寂しさ(ちゃんと戻ってくるか)が滲むという細かい描写が見どころ。

f:id:tatsu2:20190930050253p:plain

f:id:tatsu2:20190930050306p:plain

f:id:tatsu2:20190930050319p:plain

ささやかな晩餐が終わると、明日香が立ち上がり歌い出し、それにつられて4人で疑似バンド。突然明日香が何か提案して、紫音と睦も同意し、ほまれも断ることなくそれに乗って最後は案外仲良く終わる流れは、この4人の関係性をよく表しているし、過酷な身の上に立たされても「娯楽」を必要とする人間の本質を突いているように思えてくる。寝姿、寝起きもおもしろい。睦と紫音は上着をかけて寝ているが、ほまれと明日香はそのまま。しっかり者のほまれと陸が先に起きて、残りの2人を起こす。座り方と同じく、4人の性格的違いを定点カメラで切り取っているわけだ。

全12話の中で、エンディングにもいくつかバリエーションがある。「柚子温泉」回の第8話「オアシス発見!?」では食料班の3人が全員柚子を手に帰ってくるパターン。

f:id:tatsu2:20190930053907p:plain

f:id:tatsu2:20190930053921p:plain

f:id:tatsu2:20190930053936p:plain

柚子が沢山あるのだから、また温泉に行こうと紫音や明日香が言いだして、ほまれも強く言えず、結局一緒に来てしまうような展開はありそうだし、明日香が「死んだ」ネタのあった話だからか、明日香の流され方が『犬神家の一族』で有名な犬神佐清(スケキヨ)のパロディ。カメラに寄って並ぶ最後の絵も柚子を頭に乗せた紫音と海藻の垂れた明日香は表情が通常と変わっている。

そして、このアニメーションに欠かせないのがエンディングテーマである安野希世乃「生きる」。メロディといい、歌詞といい、ぴったりというほかないが、第9話「ほまれのパパ」はイントロを先に流してエンディングへ突入する、いわゆる「聖母たちのララバイ方式」(『シティーハンター』式と言えば馴染みがいいかもしれない)が採用されていた。最後のセリフである「ファザコンかな?」からシームレスに歌が始まる繋ぎはじつに気持ちいい。

最終回「水の補給方法」では、エンディングアニメーションの代わりに「生きる」のロングバージョンをバックにした「帰ってきたいつもの日々」。ここでは戻ってきた紫音がいかだから降りて、自分の足で島の土を踏む。つまり「この島で皆と一緒に生きていく」という(原作からの補完的)描写が感動的。また、父親の教えを絶対の信条にしてきたほまれがそれに従わなかったことも、もうひとつの「生きる」だ。

f:id:tatsu2:20190930063235p:plain

f:id:tatsu2:20190930063303p:plain

渋谷亮介は最終回を含む3,4,7,11,12話で絵コンテ・演出、8話で演出を担当し、エンディングだけでなく、本編でも存在感を発揮。とぼけた風の崩し絵があったかと思えば、11話の棒高跳びのような作画的カロリーを使ったパートまで、驚きのある画や動きが度々見られ、宝探しの気分で楽しませてもらった。以後、注目してみたい。

 

感想/『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -』

ヴァイオレット・エヴァーガーデン。考えてみると、これは潔いタイトルだ。名は体を表すという言葉があるが、本作に関して言えばTVシリーズの頃から、名前に物語が宿っている。名を呼ぶことが、ドラマなのだ。

イザベラ・ヨークことエイミー・バートレットとテイラー・バートレット。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -』は生き別れになったこの姉妹が主人公となり、ヴァイオレットの助けを借りて手紙を書き、互いの絆を確かめる。そして名を呼ぶことで永遠の絆を胸に刻む。話としては慎ましく思えるほどシンプルで、難解な部分は殆どない。エイミーとテイラーの心情に寄り添い、喜怒哀楽を感受する、温かみのある作品に仕上がっている。

演出上のモチーフも掴みやすい。冒頭から登場する自由に羽ばたく鳥や空に伸ばされた手は、幾度となく反復され、イザベラの通う牢獄のような女学校や戦争で孤児となった境遇と対比的に重ねられている。けれど目を凝らしてみつめると、モチーフは決して単一のものではなく、それぞれが有機的に繋がれていることに気づく。

例えば、手から見てみよう。イザベラの手は初対面でこそヴァイオレットの義手を払いのけたが、距離が縮まった後はその手を何よりも信頼するようになる。そしてイザベラに触れられたヴァイオレットの手はテイラーの髪を梳き、手を添え、手紙を書く手助けをする。手のモチーフは、髪のモチーフと繋がり、髪は風になびく。風は鳥を羽ばたかせ、二人の名前を運ぶ。エイミーとテイラーを隔てていたものを取り払い、自由にするこのモチーフの連なりは非常に美しい。人物の仕草や自然現象を活用し、ドラマを編む。京都アニメーションでヴィヴィッドな演出が注目されてきた藤田春香監督の実力が伺えるところだ。

また、髪のモチーフとも関係するが、個人的に気になったのはイザベラの髪型。長い前髪が一筋、顔にかかっているデザインで、イザベラ・ヨークとエイミー・バートレット、二つの名前/顔を持つ少女の印、あるいは"分かたれた"ことをを象徴するように見える。

 f:id:tatsu2:20190921011512p:plain

浴室に置かれた蝋燭越しのショットはそれが上手く演出された一例だ。前半のイザベラ編は、天蓋付ベッドの支柱を使ったレイアウトに代表される、拒絶(境界)を示唆するカットが多く、閉鎖的な舞台のさらに内側に閉ざされたイザベラの心があるように描かれている。その心の囲いが破られるのはヴァイオレットが孤児であったことを打ち明けてから。しかしヴァイオレットが寄り添うイザベラ・ヨークとは別の、エイミー・バートレットの心は穿たれたまま。顔を分かつ前髪は、そんな心情をあらわしたものに思えた。

ライデンの街でテイラーが配達人をする後半で、ヴァイオレットがテイラーの髪を梳かし、二つ編みではなく、三つ編みなら解けないというのは、前半から印象的だった髪というモチーフを使った、分かたれた人であり、名前に対する答えだろう。二人を結ぶのは、二人の髪に触れたヴァイオレットしかいないのだ(だからこそ、鏡の前でヴァイオレットがイザベラの前髪に触れてやるシーンの持つ意味は大きい)。

関連して、テイラーが大切にしているクマのぬいぐるみにも、ちょっとした隠し味がある。よく見るとボタンの色が赤と緑、つまりイザベラとヴァイオレットのブローチの色になっている。もちろんこれは、ヴァイオレットに出会う前にエイミーが作ってあげたぬいぐるみだから、偶然なのだけど、それが必然だったかもしれないと思わせるところが、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品の持つ優しさだろう。

何気なく目に留まるディテールやモチーフに、光と色に、作り手の想いを読む。これは、そんな見方をしたい映画だ。

 


『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -』予告

演出メモ/『ロード・エルメロイII世の事件簿 -魔眼蒐集列車 Grace note-』6話

『ロード・エルメロイII世の事件簿 -魔眼蒐集列車 Grace note-』第6話は恒例のあおきえい絵コンテ回。偶然なのか狙っているのか、TROYCAの加藤誠監督作品(『櫻子さんの足下には死体が埋まっている』『やがて君になる』)にあおきえいがコンテ参加するときは決まって6話だ。パトレイバーの松井刑事なら、TROYCAのマニア向けサービスと読むかもしれない*1

今回メモしておきたいのは、主に構図感覚。Aパートで多用されたシンメトリー、ダッチアングル、真俯瞰など左右のバランスや対角線を意識した構図が、まるで魔術的に作用していたかのような錯覚を起こさせる。「潤沢すぎて過剰な反応を呼んだ結界術式」という話の肝を画面構成でなぞらえ、見せていたわけだ。

f:id:tatsu2:20190812122544p:plain

f:id:tatsu2:20190812122632p:plain

シンメトリックな人物配置、水平・垂直を意識したカメラアングルで印象付けていく演出は、過去の「TROYCA6話」でもお馴染み。

f:id:tatsu2:20190812125302p:plain

f:id:tatsu2:20190812125355p:plain

最近よく使われている90度傾けたダッチアングルは、折り目正しい画面が続いた後だと一層驚かされる。

また、TROYCA以前のTYPE-MOON関連作を振り返っても、あおきえい節のシンメトリー構図は見受けられ、例えば『Fate/Zero』第1話の会話シーン。

f:id:tatsu2:20190812130316p:plain

構図の狙いとしては同じかもしれないが、天秤が揺らぐような取引だからか、ここでは中心に配置された人物・オブジェクトが効果を上げている。そして、より徹底的に"対称性"にこだわった作品と言えば、『空の境界 未来福音 extra chorus』(2013)*2の一幕「1998年10月 02_daylight -October, 1998-」を挙げないわけにはいかない。

f:id:tatsu2:20190812132130p:plain

f:id:tatsu2:20190813170742p:plain

宮月理々栖と安藤由子のふたりを対称の存在として描き、そこへ非対称であり、また対称でもある浅上藤乃を関与させ、未来と過去を映し出していく。

f:id:tatsu2:20190812134417p:plain

f:id:tatsu2:20190812134445p:plain

時間的存在的画面的な対称を編み込んだこの一篇は、「シンメトリー」というコンセプトが感情を揺さぶり、強く訴えかける。それが指し示す先にあるのは祈りだ。対称であるからこそ気づける真意。画面の構図と物語の構図が重なり合い、同じ方向を見つめるラストシーンは美しく、あおきえい演出の正統を観た思いになる。

未来福音 extra chorus』に触れたついでに「猫」の話もしておこう。

幹也が式の部屋に一匹の猫を預けて出掛ける「1998年8月 01_feline -August, 1998-」、グレイが餌付けしてしまった野良猫に懐かれた『ロード・エルメロイII世の事件簿 -魔眼蒐集列車 Grace note-』第0話、TYPE-MOON作品に携わる宿命というべきか、あおきえいは意外と猫に縁がある。

f:id:tatsu2:20190812151404p:plain

そもそもが「ネコアルク」に代表されるように、古くから猫をモデルにしたキャラクターは数え切れず(式もそれっぽい習性がある)、TYPE-MOONのアニメ作品を演出する以上、当然だという気もするのだけれど、動物としての猫、それも黒猫を扱ったエピソードに関わっているのは見逃せない。

というのも、よくよく観直してみると、『やがて君になる』6話にも登場していたからだ。

f:id:tatsu2:20190812154135p:plain

侑が燈子を連れて河原に行く途中の通学路、塀の上にいる黒猫がふたりを見ている。人物の映っていないオフ台詞で進行していくパートのワンカットなので、深い意味を求めるものではないが、次にクレジットされた仕事が『ロード・エルメロイII世の事件簿 』0話ということを考えると、なかなかおもしろい。佐山聖子*3新海誠*4に続く"猫"演出家がじつは誕生しているのかもしれない。

 

*1:マンガ版終盤の「おれは偶然も2回までは許すことにしてるんだ。ただし3つも重なったらこいつは偶然とは思えん、何らかの必然があるんだ」というセリフから。

*2:あおきえいは監督・脚色・コンテでクレジットされている。

*3:『同居人はひざ、時々、頭のうえ。』『ふらいんぐうぃっち』『とある魔術の禁書目録III』など、猫の出てくるエピソードを数多く担当し、たしかな観察眼と愛情ある仕草の再現性は随一。

*4:短編アニメーション『猫の集会』を制作していたり、仕事場で猫を飼っていたりと、猫にちなんだ話に事欠かない。