boogyman's memo

アニメーションと余日のメモ欄

『恋は雨上がりのように』12話の詩情

格別な詩情が溢れ出したアニメ、そう呼びたくなる。先日、完結を迎えた原作の最終回も読んでいたが、TVアニメ『恋は雨上がりのように』の締め括り方は澄明な感慨を抱かせるものだった。

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徹夜で執筆活動を行う近藤と起き抜けにストップウォッチアプリを操作するあきら、ふたりの朝を描くところから始まる最終回は、自分の中に生まれた小さな契機を雨宿りから羽ばたかせるもの。何が良いかというと大げさじゃないことだ。 進路希望調査も、勇太に走り方を教えてあげることも、日常にくっ付いて回る延長線上の出来事。それを凝りすぎた装いでない、自然なタッチで切り取っている。

本社に向かう近藤がファイルを忘れていったのも、「ありがち」な光景のひとつだ。小雨の降る中、小走りでファイルを届けるあきら。以前怪我を悪化させたあきらが、人並みではあるけれど走って「忘れ物」を届けてくれた。それはファイルに留まらない、近藤が失いかけていたものだと視聴者は知っている。雨上がりの空を反射する水溜りの上を、全力で駆け出して自分の胸に飛び込んできてくれたという近藤の幻視が物語っているのは、忘れ物、つまり「自分との約束」を思い出させてくれたことへの感謝だ。

構成の美しさも際立っている。ガーデンに戻り、店の前であきらはポニーテールをほどく。そして近藤をカットバックするこのシーンは第1話のアンサーになっている。第1話「雨音」の本編Aパートはガーデンで着替えをし、印象的なポニーテールを結ぶあきらを映す場面から始まっていた。そのポニーテールをほどくというのは、陸上に戻る決意の証だろう。

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なにより心を打たれたのは、空を見上げるあきらの瞳に流れる雨雫だ。これは初めて近藤と出会った雨の日の情景。もう雨が上がっていたとしても、その空を見上げると忘れられないあの時の光景がよみがえる。雨と空が紐付いた恋心の記憶。詩的というほかない。

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恋は雨上がりのように」を近藤の書いた小説のタイトルに持ってくるアイディアも光った。この小説は恋愛物か、あるいは青春物だろうか。「続きが読みたい」と言ってくれる人はいるだろうか。互いが自分の歩むべき道に戻っても、約束は続く。そういうかけがえのなさが滲む、清々しい幕引きだった。

シリーズ全体を振り返ってみれば、日常の生活実感を下敷きに、詩情を含ませる作品の作り方は渡辺歩監督らしく、個人的には「ちょっとアブノーマル」で「水分」(よだれ)がキーワードの(しかし中身は純情な)『謎の彼女X』に近いジャンル感だと思った。あちらでも最終話に「水分」を介して心を通わせたふたりを回り込みのカメラワークで描いていたはずだ。

シリーズ構成、作画スタッフの仕事も傑出しており、演出面では助監督を務めた河野亜矢子。絵コンテ・演出を両方担当した回は一度きりだったが、瑞々しい情緒を運ぶ手つきは精彩に富み、活力に満ちていた。スペシャルファンデチームにしろ、感性豊かな女性スタッフが貢献した部分も大きいのだろう。多彩な表現のバリエーションと生活感のこだわり、WIT STUDIOの底力を改めて確認させてもらった作品だった。

 

『恋は雨上がりのように』 #8

「続きが読みたいとも思いました。」

これは補習を受けていたあきらが、【あなたは下人のとった行動をどう思いますか? 自由に書きなさい。】という『羅生門』の問題に対して、「下人の勇気が、今後の彼の人生にプラスに働けばいいなぁと思います。」と書いた後に加えている一文*1

本作の楽しみのひとつは原作からの「翻案/再構成」を読み込むことだ。それでいうと第8話「静雨」は、“勇気”を主題に据えて構成されたエピソードだった。たとえば、吉沢を気になっているユイが前髪を切ってあげようかと声をかけた勇気、あきらのことを気にかけているはるかが、元サッカー部のキャプテン・山本*2から貰った勇気。ギクシャクした関係が続いているはるかを夏祭りに誘ったあきらの勇気。

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そしてその「勇気」についてどう考えるかというメッセージ、テーマに設定されていたのがあきらの書いた一文だ。

“続き”に触れるのは雨の降る中、『羅生門』についてやり取りをする休憩室のシークエンス。アニメで足されているダイアローグを引くと、この話の構造が見えてくる。

いずれにせよ含みを持たせたままこの物語は終わってる。

続き、続きとかないんですか?

ええ、続き?

あはは、成る程。続きねえ、今までそんなこと考えたこともなかったなあ。実に面白い。ゴメンゴメン、続きはないけどね、芥川は最後の一文を何回か書き直していてね。この前の文章では下人は雨の中に飛び出して街に強盗に向かっているんだ。芥川がどう思っていたかはわからないけど、前の文章を書いていたときには盗人になる勇気が芥川の中でとても大きなものだったんじゃないかな。俺はそう思ってる。

(中略)

俺が下人だったら、門の下でずっと雨を止むのを待っていると思う。もしかしたら、雨が止んでもその場から動けずにいるかもしれない。

芥川が何回も書き直したという最後の一文が、補習の問題で書いたあきらの一文に掛かっているわけだ。それはつまり、ふたりの関係であり、シリーズを通したアニメの構造にも置き換えられる。原作付きアニメに付きまとう「どこで終わりにするのか」という問題。その解答例をここで提示しているようにも思えるのだ。

こちらは余談。原作通りの服装であっても、色が付くと華やかさが増し、印象がガラっと変わったマイナスイオン系女子高生のワンピース。

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ユイが吉沢のときめくものを聞いていたり(細かい伏線)、ふたりの邪魔をしないようあきらを立ち去らせたり。原作に配慮された改変にアニメ版の心配りが読み取れる。

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休憩室を出る前のカットもいい。ディテールアップされた髪のタッチ+“友達”を繰り返し強調する近藤に、怒った風な顔でチラっと横目を向くあきらのクローズアップ。タッチと微妙な表情作りが目を引くアップショットだった(目パチのタイミング!)。

脚本/梅原英司、絵コンテ・演出/赤松康裕*3

*1:続きが読みたいとも~は原作にない一文。

*2:アニメでは足を怪我している設定。

*3:撮影出身の演出家で、単独での絵コンテ・演出兼任はこれが初かもしれない。

『恋は雨上がりのように』 #7

夜の青い光の中、カーテンに伝う雨雫の影。

恋は雨上がりのように』7話Bパート、雷が落ちて停電した後、ずっとテーブルに伏せっていたあきらが身を起こすシーンの美しさ、緊張感はただごとではなかった。

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青白く照らしていた外の光がカット内で変化し、画面全体の光量が落ちる代わりに、一筋の涙があきらの頬を伝う。ガラスを流れる雨粒の影はあきらの不安であり、どうしようもない感情の発露だった。それが本物の涙になった。すると、ガラスを伝っていた影は消え、近藤にある感情が湧く。影や涙が落ちるものだとしたら、感情は湧き上がってくるもの。その視覚的イメージの交差が美しい。

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近藤の腕に絡むあきらの髪の柔らかいアニメート、もつれ合って倒れるふたつの傘の情動。画面から滲み出る情緒性には目を瞠るものがあった*1。そして原作から膨らませている近藤のモノローグもこの場面を盛り上げた要素のひとつ。

この感情に、名前を付けるのはあまりに軽薄だ。

それでも、今彼女が抱えている不安をとり払ってやりたい。救ってやりたい。たとえ自分に、そんな資格があるとは思えなくても。

この感情を、この感情を。この感情を、恋と呼ぶにはあまりに軽薄だ。

今このひととき、傘を閉じて君の雨に濡れよう。どこまでも青く、懐かしさだけで触れてはいけないものを今、僕だけが守れる。今、このひととき、降りしきる君の雨に君と濡れよう。どこまでも青く、青く輝き続けられるように。今、僕だけが祈れる。

「この感情を」というフレーズを3回繰り返すのはアニメの脚色部分(原作では1回)。また近藤正巳役・平田広明ディレクションの賜物か、3度発声するそれぞれのニュアンスをすべて変えているのがすばらしい。後半はまるで私小説を読んでいるようであり、「ひととき」「今」と何度も連呼しているところに煩悶の痕が見て取れるし、文学青年だった名残が湧き上がってきていると読んでも面白い。

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「青」で覆われていた部屋が眩い光に照らされ、雫は下へ、感情は上へ。天井に映りこんだ雨の影は落ちているのか上っているのか。光と影による交感の演出。熱に浮かされた雨の陰影、ひとときの幻想。理屈ではない感情が押し寄せてきているという劇的な一瞬だった。

脚本/赤尾でこ 絵コンテ/二村秀樹、演出/丸山由太、河野亜矢子、赤松康裕 作画監督門脇聡、西原恵利香、奥野明世

*1:雨雫の影や凝ったあきらの髪の表現は河野亜矢子絵コンテ・演出の第3話にも登場する。

『恋は雨上がりのように』6話の構成力、演出

恋は雨上がりのように』は構成力に唸らされるアニメだ。

原作付きのアニメを観るとき、原作既読の状態が必ずしも好ましいとはかぎらないが、本作はシリーズ構成、各話の構成、ともに原作ファンの目で観ても「こう来たか」と思わせる仕掛けがある。アニメ第6話「沙雨」は原作3巻のエピソードを再構成し、“3人”の関係性、すれ違う思いを描いたものだ。

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まず、これまで出番の少なかった喜屋武はるかを今回の語り手のひとりにすると伝えるアバンタイトル。本編Aパートは中学時代の回想から始まって、朝、学校に行く前にその頃の写真をじっとみつめるはるかのカットを挟み、部活と補習を行っている学校のシーンへ。眩しい夏の日差しの下、笑いあう陸上部の目を避けながら、補習終わりのあきらは大汗をかいてバイトに向かう。途中、駅のホームであきらは穏やかな風の音を聞く。そして夏の青空から街並みへとカメラが振られ、今日も「ガーデン」で働くあきらを見守るように、いつもと変わらない夜が更けていく。このアバンからファーストシークエンスまでの描写をみても、大部分は原作通りだ。しかしエピソードを並び替えた事によって、あきらとはるかの交わらないある夏の一日という輪郭がくっきり浮かび上がる。ガーデンの店内にカメラが入らないまま終わっているのも重要だ。これはガーデンに向かう道のり(あきらとはるかの走ってきた道にもかかった二重の演出)の話なのだと暗に語っている。

脚色の巧さが光ったのはBパート冒頭。

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ひとり集中し、ラスト一本を全力で走るはるかは、子供のころ追いかけていたあきらの背中を思い出す。この本来なら原作7巻に登場するはずの回想とオリジナルの練習シーンを組み合わせたアニメ独自のプロットが呼び覚ましているのは、陸上への情熱とそれを追う視線、走っていると耳をいっぱいにするという風の音だ。さらにはるかの走り終わった後、轟いている遠雷がレアキーホルダーを受け取って帰路につくあきらの頭上でゴロゴロと鳴る。そうして呼びかけられた音は物語に新たな味わいを生む。

それがラストシーンだ。あきらは突風を背中から受けて、ひとりその音に耳をすます。幻想的な画面の中、あきらの姿は次第に滲み、夜空に“とけていく”。(先の回想と同じく、原作7巻に登場する描写のアレンジ)。

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これも駅のホームで風を感じ、はるかの回想で反復されているからこそ、特別な音として伝わってくるわけだ。背中の見せ方もいい。はるかの視線を背中に受けていたあきらが、今は近藤の背中をひそかにみつめている。けれど、かつて聴いていた馴染み深い音を忘れたわけじゃない。あきらにも、近藤にも、互いに自分を呼んでいるものがある。その感傷的な余韻が後を引く、構成の妙。存分に堪能させてもらった。

脚本/木戸雄一郎、絵コンテ・演出/鏑木ひろ。(多重露光のカットはお気に入り)。

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