boogyman's memo

アニメーションと余日のメモ欄

TROYKAの遮断機/七海燈子の踏切

 『やがて君になる』は演出に凝ったアニメだ。小糸侑と七海燈子、ふたりの心情を様々なフレーム、境界線によって描き出そうとしている。そのひとつ、「踏切」についての小話。

踏切は電車や人々が行き交う日常的な場所でありながら、「線」が多く、心理的距離を映すにはうってつけで、時には待ち時間(遮断された世界)まで発生する演出的特性に溢れた空間だ。第2話「発熱/初恋申請」Aパート終盤の踏切シーンは、その特性を存分に使った印象的な場面になっていた。

フィルターワーク、スローモーションのアイディアもさることながら、特に目を引いたのはローポジション、ローアングルで見上げる遮断機のカット。「まぁ仮に女同士じゃなくたってわたし…好きになるとか、ないですけど」という侑の台詞に合わせて、真上から遮断機が降下。遮断桿が下降位置のブレーキで弾んで停止するのに合わせてカットバック、急に立ち止まる燈子にぶつかる侑、という連鎖的な繋ぎが秀逸。燈子の心のような踏切、弾む遮断桿はまるで燈子の琴線。原作通りのシチュエーションをより比喩的な演出で膨らませている。

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ここで思い出したのが、同じTROYCAが制作した『Re:CREATORS』第1話の冒頭だ。駅のホームを力なく歩くセツナのロングショットの後、遮断棹を垂直に固定したまま回転降下するトリッキーなカット。 

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奇妙に流転する世界、本来下にぶら下がるはずのテープが横になびく、物理法則の逆転。被造物、引いては物語の属性を暗示する遮断機。踏切を生かした演出は数あれど、こんな意味深な遮断機のカメラワークは見覚えがないな、と感心してしまった。だから『やがて君になる』の当該シーンは「TROYCAの遮断機にまたやられた」と思った。尤も、加藤誠監督は『Re:CREATORS』の副監督でもあり、多少意識的に設計している気もするのだけど……それはまあ、考えすぎかもしれない。

『色づく世界の明日から』と篠原俊哉のポッキー

P.A.WORKS×篠原俊哉の新作『色づく世界の明日から』が始まった。魔法の使える社会で魔法が使えず、幼い頃に色覚を失ってしまい、灰色の世界を見つめてきた少女・月白瞳美が祖母の時間魔法によって突然60年前へと渡るファンタジックな作品だ。

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第1話Aパートで瞳美は過去へと時間移動することになるが、そこで気になるプロップがあった。彼女が手に持っているポッキーだ。花火の約束をした祖母を待っている間、瞳美はポッキーを口にする。そして時空を超えるバスに乗車しているときにも少しかじり、現金を持っていなかった瞳美は運賃代わりに箱ごと手渡す。Aパートを通して微妙に時間を持て余している雰囲気であるとか、持っていて自然な表現としてポッキーが一役買っており、なんというか演出的な趣向が感じられた。

それもそのはず、じつは篠原俊哉監督は(妙な言い方で申し訳ないけれど)名うてのポッキー使いなのだ。監督作である『凪のあすから』18話と各話演出で入った『Charlotte』(12話、ED)でも印象的な小道具として登場しており、興味深いなと思っていた。

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ポッキーがどんな性質を持ったアイテムか考えてみると、まずCMの影響(歴代のトップアイドルや女優が起用されている)もあってか、美少女と相性がいい。画的に可愛らしく、くわえたり持っている姿が様になる。また、携帯に適しており、食べるとポキッと軽快な音が鳴る。つまりリアクションが付けやすく、カット内の契機にしやすい。これは演出上便利だなと思う。他方で、「食べかけのまま戻せる」という“機能”を備えているお菓子だ。

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例を挙げれば、『Charlotte』12話の奈緒は食べかけのポッキーを箱に戻し、有宇に渡している。ひょっとすると見逃してしまいそうなロングショットの芝居だが、「恋人になる約束」「能力の略奪」に「食べかけのポッキー」を加えることで奈緒の心理描写を深めているわけだ(鏡の使い方もテクニカルなシークエンス)。

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『色づく世界の明日から』にも食べかけたポッキーを戻している場面がある。待ち合わせに祖母が来たところと、(箱の中に戻す芝居は描かれていないが)おそらく戻していると思われるバスの席から立ち上がるシーンの二箇所。これは「そういうの、どうでもいい」と言って祖母に「あなたの悪いクセよ」とたしなめられているように、食べかけであるかどうかなんてどうだっていいと心を閉ざしている表現かもしれないし、あるいは過去への時間移動に引っ掛けて「戻す」ということ意図した芝居なのかもしれない。いずれにせよ、解釈の余地を残す、暗喩的な使われ方だ。バスを降りるシーンでは円筒形の箱の底から映すアングルを利用して「2078.9」を見せているのも効果的(わざわざ説明しない)で、映像演出におけるプロップの活用例として面白いものだった。

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次はいったいどんな形で用いられるのか、篠原俊哉監督のポッキーに乞うご期待。

22/7「あの日の彼女たち」の演出、魅力

22/7「あの日の彼女たち」キャラクターPV day06 丸山あかね、day07 戸田ジュンが公開されていた。今回は詳細なスタッフ情報が掲載されており、一部で噂されていた通り、アニメーション制作はCloverWorks、監督に若林信、キャラクターデザイン・作画監督には堀口悠紀子。さらに小林恵祐、小林麻衣子、江澤京詩郎、大山神らの名前が並び、“スーパー”制作進行・梅原翔太を含め「エロマンガ先生8話組」が中心にクレジットされている。


22/7「あの日の彼女たち」day07 戸田ジュン

PVで描かれているのは、レッスンの合間の一幕だったり、ファミレスで注文するメニューを悩む姿であったり、短編映画のワンシーンを切り取ったような些細な出来事。登場する人物はPVによって異なるが、基本的にふたりの少女だけ。フィルムから滲み出る少女と少女の関係性、何となく伝わってくる背景。決して雄弁ではないけれど、寡黙でもない。察して楽しむ、そういう性質の作品だ。

驚かされるのは、そのヴィヴィッドな仕上がり。「本当にそこにいる」と思わせるほど精度の高い人物芝居、出来る限りBGMを使わず、環境音を生かした舞台設計。そして肝とも言える光のコントロール

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光の当たり方が変わり、陰影が付く。それによって違う側面が見えてくる、緻密に計算された音とライティング。見ているうちにいつの間にか彼女たちの感性に引き込まれてしまう、そんな作りになっている。その説明的、記号的ではない演出の姿勢はかつて『魔法のスター マジカルエミ』のOVA「蝉時雨」などで見せた安濃高志監督の方法論に接近していると思った。

緊張感を湛えた、何も起こらないドラマ。しかし「何か」がある。言葉に出来ない、あるいは表層的ではない「何か」を安濃高志監督は“克明“に描くことによって獲得しようとした。「克明」とは、表現に必要なものを決めて、周囲にあるものを象徴的に扱い、映像の中に時間を浮かび上がらせることだ。するとやがて心情、つまり目に見えない心の中の思いが照らされていく。「あの日の彼女たち」に流れる時間も、すべてがというわけではないにしろ、やはり心情を描こうとしている。

たとえば、「day07」はBL画面に野菜を切る包丁の音が乗せられて始まり(BLスタートは『エロマンガ先生』8話もそうだ)、煮立った鍋の前に立つ戸田ジュンのところへ、買い物を頼まれた立川絢香が帰ってくる。その右手にはアイスが握られていて、「あたしの分は?」と訊くジュンに対して絢香はアイスを一口、「うまい」と答える。「さいですか」と鍋の方を向くジュンの首筋に不意打ちのチョコミントをピタリ。勢いで蛇口から跳ねた水が切り込みを入れて冷やしている茄子の元へ一滴ポタリ。そして「はい、チョコミント」という絢香の台詞に重ねてタイトルが表示される。

玉葱を切るリズム、台詞の間合い、芝居のタイミング、そのすべてに「凝っている」と見せない自然な空気感が、翻って演出の凄味を感じさせるのだけど、ここで憎いなと思われたのはアイスを渡す直前の綾香の視線だ。

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鍋に向き直るジュンとは視線を合わさないで首筋に眩しく浮かぶ汗をみつめている。この汗が誰のためのものかというのを絢香は察しているのだろう。他愛のない意地悪、ふたりの距離感、思いやり。それが「チョコミント」「跳ねる水音」「切り込みの入った茄子」に心情として映し出され、意味を持つ。こういった繊細で高度な表現を抜かりなくやり通しているのが、「あの日の彼女たち」の大きな魅力だ。

たぶんそれが出来るのは、実力ある人間が集まり、座組みに信頼があるからなのだろうと思う。新進気鋭のスタッフが集まり、しかも風通し良く上手い連携が取れて初めて成り立つフィルム、という気もする。若林信×堀口悠紀子のPVなんて未だに信じられないくらいだ。若林監督でいえば、『僕はロボットごしの君に恋をする』アニメPVの完成度も素晴らしい。この溢れんばかりの才気をずっと追いかけていきたい。


【フルver.】僕はロボットごしの君に恋をする アニメPV

『恋は雨上がりのように』12話の詩情

格別な詩情が溢れ出したアニメ、そう呼びたくなる。先日、完結を迎えた原作の最終回も読んでいたが、TVアニメ『恋は雨上がりのように』の締め括り方は澄明な感慨を抱かせるものだった。

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徹夜で執筆活動を行う近藤と起き抜けにストップウォッチアプリを操作するあきら、ふたりの朝を描くところから始まる最終回は、自分の中に生まれた小さな契機を雨宿りから羽ばたかせるもの。何が良いかというと大げさじゃないことだ。 進路希望調査も、勇太に走り方を教えてあげることも、日常にくっ付いて回る延長線上の出来事。それを凝りすぎた装いでない、自然なタッチで切り取っている。

本社に向かう近藤がファイルを忘れていったのも、「ありがち」な光景のひとつだ。小雨の降る中、小走りでファイルを届けるあきら。以前怪我を悪化させたあきらが、人並みではあるけれど走って「忘れ物」を届けてくれた。それはファイルに留まらない、近藤が失いかけていたものだと視聴者は知っている。雨上がりの空を反射する水溜りの上を、全力で駆け出して自分の胸に飛び込んできてくれたという近藤の幻視が物語っているのは、忘れ物、つまり「自分との約束」を思い出させてくれたことへの感謝だ。

構成の美しさも際立っている。ガーデンに戻り、店の前であきらはポニーテールをほどく。そして近藤をカットバックするこのシーンは第1話のアンサーになっている。第1話「雨音」の本編Aパートはガーデンで着替えをし、印象的なポニーテールを結ぶあきらを映す場面から始まっていた。そのポニーテールをほどくというのは、陸上に戻る決意の証だろう。

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なにより心を打たれたのは、空を見上げるあきらの瞳に流れる雨雫だ。これは初めて近藤と出会った雨の日の情景。もう雨が上がっていたとしても、その空を見上げると忘れられないあの時の光景がよみがえる。雨と空が紐付いた恋心の記憶。詩的というほかない。

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恋は雨上がりのように」を近藤の書いた小説のタイトルに持ってくるアイディアも光った。この小説は恋愛物か、あるいは青春物だろうか。「続きが読みたい」と言ってくれる人はいるだろうか。互いが自分の歩むべき道に戻っても、約束は続く。そういうかけがえのなさが滲む、清々しい幕引きだった。

シリーズ全体を振り返ってみれば、日常の生活実感を下敷きに、詩情を含ませる作品の作り方は渡辺歩監督らしく、個人的には「ちょっとアブノーマル」で「水分」(よだれ)がキーワードの(しかし中身は純情な)『謎の彼女X』に近いジャンル感だと思った。あちらでも最終話に「水分」を介して心を通わせたふたりを回り込みのカメラワークで描いていたはずだ。

シリーズ構成、作画スタッフの仕事も傑出しており、演出面では助監督を務めた河野亜矢子。絵コンテ・演出を両方担当した回は一度きりだったが、瑞々しい情緒を運ぶ手つきは精彩に富み、活力に満ちていた。スペシャルファンデチームにしろ、感性豊かな女性スタッフが貢献した部分も大きいのだろう。多彩な表現のバリエーションと生活感のこだわり、WIT STUDIOの底力を改めて確認させてもらった作品だった。