boogyman's memo

アニメーションと余日のメモ欄

新海誠が描いてきた雨――『天気の子』公開に寄せて

新海誠監督の最新作『天気の子』の公開がいよいよ目前まで迫っている。

予告編を見ても明らかなように『天気の子』のテーマに「雨」が深く関係しているのは間違いない。連日降り続く雨と“100%の晴れ女”というキーワード、それが世界をどんな風に動かしていくのか、封切りが待ち遠しい。

ところで、新海誠監督は「雨」に並々ならぬ思い入れを持つひとだ。その結実した形のひとつが様々な雨によって移り変わる心情を細やかに描いてみせた『言の葉の庭』であり、「雨と新海」の極北といってもいい。

では、新海誠がいつから雨を降らせてきたのかというと、古く自主制作時代からだ。

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 季節は春の初めでその日は雨だった。だからの彼女の髪も僕の体も重く湿り、辺りは雨のとてもいい匂いで満ちた。

1999年公開の短編アニメーション『彼女と彼女の猫』はこんなモノローグで始まっている。ブレてないな、と思わせるのは、ただ雨が降っている状態を描くのではなく、雨を通じて季節感と心の動きをに繋がりを持たせていることだ。これは20年経った今でも変わりがない。

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新海誠の名を一躍有名にした2002年の短編SFアニメーション『ほしのこえ』においても雨は重要な役割を果たしている。ミカコとノボルがコンビニで買ったアイスをバス停で食べようかという場面、二人は雨に打たれながらバス停に行き、雨宿りをする。ノボルはミカコが地球を離れてからも雨のバス停でミカコのメールを読み、ミカコはシリウス星系第四惑星アガルタの調査中、突然降りだした雨にあのバス停の日を想う。雨と思い出の結びつき、雨に濡れた身体的感覚、匂いなどの雨にまつわる五感性とある種の官能性(脚フェチ的な視線)、『ほしのこえ』で描かれた雨は『言の葉の庭』の原型になっている部分も多く、初期作にして「雨と新海」の関係は完成されている。

続く、初の劇場長編アニメーション作品『雲の向こう、約束の場所』(2004年公開)では雨が主役となるシーンは少ないが、第1部でタクヤとサユリが偶然会った日は雨が降っており、二人だけで話したことがない緊張からか、傘の石突や手元を弄るサユリの仕草はいじらしく、どこか『言の葉の庭』のユキノを思わせる。また雨音と人物が奏でる新海的な「間」の作り方も見どころ。

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3年後の第2部でもタクヤはマキと一緒に傘を差して歩くシーンがあり、空を見上げるヒロキに対してタクヤには雨が用いられていることが分かる。

前後して、この頃発表された『Wind -a breath of heart-』『はるのあしおと』各オープニング、サブカルチャー誌「新現実 Vol.01」掲載の短編漫画『塔の向こう』*1にも雨のモチーフは共通して見られ、特に駅のホームを描写するときには、必ずと言っていいほど雨の中。接続と分断が行き来する電車や駅と、登場人物の心模様を映像的に表現できる雨は相性がいいのだろう。

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そして2007年に公開された連作短編アニメーション『秒速5センチメートル』。

この作品に雨のイメージを持っている人は少ないかもしれない。貴樹が明里に会いにいく日、朝降っていた雨が次第に雪へと変わる第1話「桜花抄」、桜の花びらが舞う踏切のラストシーンが印象的な第3話「秒速5センチメートル」、桜と雪の映画であることに疑いはない。しかし移りゆく心と季節を描く中には雨の風景もたしかに残っている。

それは第2話「コスモナウト」の中盤、進路調査に悩む花苗が高台に佇む貴樹を見つけ、その帰り道、NASDA宇宙開発事業団)のトレーラーが通り過ぎるのを待っているシーン。花苗は「時速5キロなんだって」と何気なくトレーラーの運搬スピードのことを口にし、貴樹は不意を突かれたかのようにハッとした表情で花苗を見る。その後に土砂降りの雨が降ってくるのだ。

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このシーンは「ねえ、秒速5センチなんだって」と明里が言った「桜花抄」のファーストショット、冒頭と明確に重ねられている。水たまりに広がる波紋、明里を追いかける貴樹、貴樹の後ろを走る花苗、登場人物の関係性が対比的なショットによって示唆されているわけだ。

また二人を打った「コスモナウト」の雨は、コミュニケーションの断絶を表した雨でもある。雨に濡れても花苗は高台で貴樹から言われた言葉を思い出して束の間の幸せに浸り、貴樹は遠い宇宙の深淵にあるはずの世界の秘密を探す孤独な旅に思いを馳せる。

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ここには遥か彼方の惑星で降り出した雨にノボルとの思い出を胸に抱いたミカコ、『ほしのこえ』への目線もあるのだろう。物理的な距離の断絶とコミュニケーションの断絶、通じ合えない心と距離の関係を雨によって描き出している。それに雨だからか、花苗のブラ紐が外れかかった新海的サービスショットも健在。バス停のミカコを彷彿とさせる、ほんのりとした色気のあるカットだ。

そしてもうひとつ、『秒速5センチメートル』と雨を語る上で外せないのが、本編制作に先立って書かれたスケッチ小説の一篇「窓のそとの空」*2。六月、台風の朝、雨の電車に乗るのが嫌で学校をさぼった中学三年生の小川深雪を主人公に、小説の創作に思い悩む少女の心情と台風の目の中で広がる世界の輝きに打たれる在り様が瑞々しい掌編だ。

高層のベランダから空を見ながら、青は不安で悲しい色だ、と深雪は思う。青はこんなに遠く、こんなに高い。届くわけがないのに、私は手を伸ばしたくなってしまう。わけもわからず、でも目の前に横たわる圧倒的な時間と空間に身をすくませて、深雪は泣き崩れる。

届かないものに手を伸ばし、眼前に広がる圧倒的な光景に打ち震えて涙がこぼれる。これはどこからどう見ても完璧な、新海誠の情景だ。風景と人物が一体となって呼び起こす情動。それについて美術作品集「空の記憶」のインタビューでこんな風に答えている。

描きたいのは、《ただの風景》というより人間を含めた情景なんです。特にそれを意識したのは『秒速~』第2話「コスモナウト」の花苗です。あの中で花苗は、絶望的な恋愛をしていて最後までうまくいかない。そこだけ切り取るとすごく悲しい話なんですけど、一歩引いてカメラで観てみると、彼女はとても美しい情景の中にいるんですね。つらい状況にあったとしても、それは情景としてはすごく美しくて、そしてつらいと感じている彼女自身がその美しさを構成する一部であるということを描きたかった。人が美しい情景に含まれていることを救いとして描きたい、そう思ったんです。

花苗が美しい世界に囲まれた祝福された存在であるという感覚をビジュアルで見せたいというのは、絵コンテのト書きにもメモしてあり、技術的にも『秒速5センチメートル』はハイライトと影の境目に彩度の違う色を足してマッチングを向上させるなど工夫が凝らされている。雨と情景、美しい世界との一体感、その身体性を含め、『言の葉の庭』に至る道程に澄田花苗という少女は立っているのだ。

雨の描写で言えば、『秒速』以後の『ef - the latter tale』オープニング、長編アニメーション『星を追う子ども』でも見られる波紋、晴れ間に落ちる雨は継続的特徴と捉えることができるかもしれない。

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おそらく新海誠監督は、波紋が広がるという意味を特別なものだと思っている。雨粒が水面に物理的に作用して波紋を広げることが、人との出会いだったり、自分が世界といかに関わっていくかということへのモチーフとして位置付けている気がするのだ。そうして関係を結んだ世界が表情を変える一瞬の時間こそ、眩い光の射す天気雨ではないかと思う。雨は決して陰鬱な気分にさせるだけのものではない。画面をグレーに染めるのが雨の役割じゃない。そんな信念を感じさせる作品が、2013年5月31日公開の『言の葉の庭』だ。

反射光や環境光を彩色に取り入れることで浮かび上がり、一方で輪郭線と一体化する技術的アップデート。雨の日の出会い、雨と駅のホーム、天気雨が演出する日常の中の非日常、日差しにさらされて立ち上る水蒸気、様々な場所へ映り込む水紋、ありとあらゆるコンセプトで雨を描き、ビジュアルの密度を高めた「雨と新海」の集大成。

本作が過去作と違うのは、かつて背景と共にあった雨が前景化し、モノローグ主体だった物語がダイアローグへと移り変わっていることだ。コミュニケーションの断絶ではなく、心の触れ合いを雨という題材によってこと細かに表現する。それとミカコ、花苗と受け継がれてきた雨の日の身体性を自覚的に用いているところも大きな違いだ。

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もしかしたら、道に迷ってしまった二人の「雨宿り」というテーマも『ほしのこえ』へのアンサーフィルム的な側面を持たしているのかもしれない。あのバス停の雨宿りは切ない思い出を象る遠いものとなってしまったが、タカオとユキノは心をぶつけ合い、自分の足で歩き始めている。たとえあの雨宿りが仮初めの場所だったとしても、雨の日に邂逅した二人は雨に救われて、ふたたび歩き出すことができたのだ。そこに後ろ向きな思いや障害はない。ロマンチック・ラブの否定とは違う出口に雨が降り始めた。この方向へ歩くどころか全速力で走っていった作品が、雨にかわって隕石が降ってくるという一大エンターテインメント、まだ記憶に新しい2016年の長編アニメーション『君の名は。』だ。

言の葉の庭』でとことん雨を降らせた反動か、『君の名は。』の雨のシーンは瀧が山上にある宮水神社の御神体へ向かうときの雷雨やクレーターの底を歩く一連、エピローグの一部くらい。水煙、波紋といった新海的雨表現は見られるものの、全編を見渡すと隕石がはっきり見えるよう晴れた映画である印象が強い。

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ただし、エピローグの雨から雪へと変わっているシーンの繋ぎは「桜花抄」の天候を再現しており、季節の移ろいとすれ違いを連想させる、心を揺さぶった雨だった。再会が叶うかどうかという場面で『秒速』のニュアンスを差し込んでくるあたり、抜かりない。

最新作『天気の子』は予告を"予報"としていたり、「まるで世界の秘密そのものみたいに、彼女は見える」といった『言の葉の庭』の予告を意識するように、「これは僕と彼女だけが知っている世界の秘密についての物語だ」というセリフで予報が締められていたりと、もうずっと長い間語られてきた「雨」と「世界の秘密」を新たな切り口で語り直す映画ではないかと思う。

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タイトルに「天気」と付けているだけあって、天気雨のイメージが豊富。自然現象としての天気雨を描いてきた作家が今度は超自然的な力で天気雨を降らせるのか。光と雨のコントラストが生み出す新機軸の映像表現に挑戦した雰囲気さえ漂うが、変わらないものもある。

新海誠が降らす雨は、時に人との約束だったり、夕立のアスファルトの匂いであったり、巡っていく季節の中で何かを運ぶ、あるいは待つという現象的象徴だ。雨の雲間に射す光は美しく、澄んだ青空にもいつしか雲がかかり、雨粒が水面に落ちて波紋が生まれる。その波紋は心を動かし、世界を紡ぐ。それだけは変わらない、たしかなものだ。加えて雨に付随する身体表現。『君の名は。』では瀧が三葉と入れ替わる度に胸を揉むくらい吹っ切れていたが、『天気の子』もなにやら仕掛けてくる気がしてならない。ユキノの採寸シーンを超える新海的エロスをフィルムに焼きつけて欲しい。

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秒速5センチメートル 特別限定生産版 DVD-BOX

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*1:後に「雲のむこう、約束の場所」complete book、「新海誠Walker」にも収録された。

*2:秒速5センチメートル』DVD-BOXブックレットに掲載されている。