boogyman's memo

アニメーションと余日のメモ欄

土曜日の新人たち

筆不精が続き、無理矢理にでも何か書く機会を設けねば! と奮い立つも、日々の更新は難しい……ということで、「呑み」同人サークル・かるこーるぞくやアニメ関連の同人誌作りなど、マルチな活躍をしている機長さんに倣い、週間単位の雑記を残していきたいと思う。いつまで続くかは不明だけれど……

今期、2020年秋クール(10月開始)のTVアニメ放送スケジュールは、とにかく週末の密度が凄まじい。とくに土曜深夜は『ご注文はうさぎですか? BLOOM』から『いわかける!- Sport Climbing Girls -』放送終了までの4時間強、TVの前から座して動けない人も多いのではなかろうか。どれも面白いから困りものだ。

アニメファンの性として、テロップもぼちぼちチェックしながら観ているのだけど、ここのところ、新人とおぼしきスタッフの活躍が気になっている。

■横手颯太

『半妖の夜叉姫』第5話 演出(10/31放送)

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』第5話 演出(10/31放送)

■安藤えりか

『体操ザムライ』第4話 脚本(11/1放送 ※10/31深夜 )

■居村雄馬

ご注文はうさぎですか? BLOOM』第5話 演出(11/7放送)

いずれも直前に制作進行、文芸といった役職でクレジットされているので、新人、あるいはそれに準じた若手といって差し支えないはず。制作スケジュールと放送日の兼ね合いもあってか、横手颯太は新人にもかかわらず同日に演出話数が二本被るという異例のスタート。次はコンテを兼ねた話数を見てみたい。

抑えておきたいのは『体操ザムライ』の安藤えりかだ。演出、作画といった後工程の影響も強く、この話数だけで力量を測るのは時期尚早かもしれないが、男子にからかわれている主人公の娘・荒垣玲の悩める感情を衒いなく描き出す筆致や芯の強さは脚本の手柄といっていいのではないか。中でも逆光の「おはよう」でピタリと止めたラストシーンは素晴らしい。「減点なし」、最高の着地だ。

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『波よ聞いてくれ』12話の信頼とアドリブ

俺、映画でもアニメでも、原作に忠実であるべきだとは決して思わないんですよ。その道のプロが最善と考える見せ方をしていただければOKで。

これは「アフタヌーン」2020年2月号の誌面対談で南川達馬監督に原作の沙村広明が語っていた言葉だ。形式上、多少のリップサービスがあるとしても、思えば最終回に向けた原作者からのメッセージだったのかもしれない*1。アニメ『波よ聞いてくれ』12話「あなたに届けたい」は忠実に原作を追えばまだ先だったはずの北海道地震と大規模停電を盛り込み、全体の構成をアレンジしながらも、非常に綺麗にまとめられている。試されるミナレのアドリブ力、災害時における緊急マニュアルの展開と行動のリアリティなど、原作とは違った道を通ったからこそ、原作読者にとってもハラハラするおもしろさがあった。

特筆しておきたいのは、そこで描かれている「信頼」についてだ。「MRS」のディレクター・麻藤兼嗣はミナレのアドリブを信じた。緊急事態であろうとも鼓田ミナレには切り抜けられる発想とトーク力が備わっているのだと。喋りの「プロ」になれと背中を押したわけだ。その麻藤の最も信頼しているパーソナリティが大原さやか演じるMRSの看板、茅代まどか。作中ではミナレの後番組を担当するため、愛車を飛ばして駆けつけてくるが、茅代が放送ブースに入るまでの芝居作画はじつに素晴らしい。

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放送席に座り、ヘッドフォンを装着する。ただそれだけの芝居にどれほどの説得力を持たせられるか。つまり非日常の最中、いかに日常的かつ平静的な芝居で通せるかという、「普通」の難しさをアニメートする勝負をかけたシーンだったのではないかと思う。慌てず騒がず、安心感のある「いつも通り」の姿。ここにも信頼があるのだ。麻藤が茅代を信頼するように、おそらく南川監督もアニメーターがこの芝居を描いてくれると思って絵コンテを切り、演出している(勿論、大原さやかの力量も信用しているだろう)。ドラマの中で描かれる信頼と作り手の信頼が重なり合う、多人数で制作する「番組」ならではの醍醐味だ。

もうひとつ、演出の「アドリブ」にも触れておきたい。姉に叱られ、帰りの遅い城華マキエを探しに出た中原忠也が、公園で祝杯をあげる城華を見つけ、公園のベンチで話し込む場面。

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基本的には原作コマを活かしたカット割りなのだが、無自覚な中原の優しさが炸裂する途中で、原作にはない城華が何かをつぶやく口元のアップがインサートされている。このインサートは城華の感情が溢れ出す、言わば前触れのようなものだ。スポットライトのような照明、何かを言い出したくて堪らないバックショット。城華マキエが中原忠也にどれだけ参っているか、思わず泣き出してしまう感情の道筋がひとつの「アドリブ」によって原作以上にグッと引き立っている。まさに演出の隠し味だ。

また城華の「泣き」も絶品。能登麻美子の「もお…やだ……」をぜひ聞いてくれ。

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*1:対談の中で最終話のアフレコが終わっていることが明かされており、原作者による脚本・コンテ等のチェックも事前に済ましていたのではないかと思われる。

演出メモ/『空の青さを知る人よ』

『空の青さを知る人よ』は秩父三部作の集大成と謳われているが、「超平和バスターズ」作品としても、完結編的な映画だと思う。演出にしろ作劇にしろ、語り口に迷ってしまうほど密度があり、一つ一つに込められた意味が重い。言ってしまえば、「だれから/どこから」語るか、慎重に選びたくなる映画かもしれない。

「だれから」についてはまず、この2本の記事を押さえておきたい。*1

【藤津亮太の「新・主人公の条件」】第11回 「空の青さを知る人よ」相生あおい

舞台は秩父、せつなく不思議な四角関係(小原篤のアニマゲ丼)

「新・主人公の条件」では相生あおいにスポットを当て、彼女がどうして主人公であるのか解説されている。中でも荒井(松任谷)由実の「卒業写真」と過去/現在/未来の時間のあり方をつなげる鮮やかな手練には思わず拍手を贈りたくなる。公開当時、エンドロールの「写真」に引っ掛かりを覚えるといった感想をいくつか読んだが、これはそのひとつのアンサーだろう(自分自身、少なからず考えあぐねていた)。

対して「アニマゲ丼」の記事は「あかね」ルート(視点)への詳細な読み解きを主としており、あかねの素晴らしさが存分に語られている。とくにあかねが時折みせる微妙なリアクションへの解釈は一読どころか、何度も読み直しながら映像を観たいと思わせる、一種の"解答集"(「正解」とは異なる)になっている。ぜひ作品読解のガイド、参考にしたい優れたテキストだ。

これらを踏まえ、さらに深掘りしていくと何が見えてくるのかというと、例えば最初観たときから気になっていた、あかねの乗るジムニーのとある描写。

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アニマゲ丼の一文を引用しよう。

慎之介が現れて物語が進むにつれ、彼女の本心が明らかになっていきます。彼への思いはあるけどそれをハラにおさめてきたのは、あおいを育てることの方が大事だから。それは自分がガマンするということではなく、あおいにそれだけの価値があり、あおいの成長を見守ることに自分の一番の喜びがある。その選択は主体的なもので、その正しさは彼女にとって揺るぎないものだからです。悲しい「犠牲」にも美しい「献身」にも塗り込めてしまわないところに、奥深さを感じます。

着目したいのは、あかねの選択が主体的なものであるというところ。目の前にどんな壁があったとしても、人生のハンドルは自分で握っている。だから、と言い切ってしまうほどの根拠を求めるわけではないけれど、何故彼女がオートマではなくマニュアルの車に乗り、"悪路"走破性の高いジムニー(山道を通る秩父の土地柄もある)を選んでいるのか、納得できるだろう。

「マニュアル」を生かした演出もある。終盤、あかねと慎之介、「しんの」の3人で帰る車内のシーンだ。

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右手をハンドルに添え、左手でシフトレバーを握るあかね。 そこへインサートされる幼いあおいと手をつないだ高校生のあかねのバックショット。あかねの両手、右手と左手が握ってきたもの。そして、その手を離れていくもの。あかねの「手」(人生)と「マニュアル」を重ねた巧みなモンタージュ。色トレスであかねとあおいを描いているのが長井龍雪監督のフィルムらしく、また「シフトチェンジ」の意味合いがドラマと演出、両方に掛かっている。ベースを弾くあおいの手、そんなあおいの手を引いてきたあかねの手、その手を次に引くのは……これ以上は野暮だろうか。

さて本作を「どこから」切り取るか、書いておきたいのは「囲まれている」という作品のテーマと、その見せ方についてだ。

「盆地ってさ、結局のところ、壁に囲まれているのと同じなんだよ。わたしたちは、巨大な牢獄に収容されてんの」

これは作中であおいが口にした秩父盆地を皮肉って自虐するセリフ。対となるのは、あかねが卒業アルバムに書いた「井の中の蛙 大海を知らず、されど空の青さを知る」という慎之介のデビュー曲の元となり、映画のタイトルにもなっている言葉だ。

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秩父を「井の中」に見立て、仮想的に東京、あるいはもっと広い世界のことを「大海」と呼ぶ。この辺りの秩父と東京の関係性は、秩父市出身、脚本・岡田麿理の肌感覚によるものかもしれない。脇道に逸れるが、元々「井の中の蛙」の故事成語は「荘子・秋水」に由来し、秋の洪水にちなんだ話である。もし蛙が狭い井の中で空を見上げていたとしたら、それは秋の空なのだ。狙ってか知らずか、『空の青さを知る人よ』も10月の終わりから11月の頭にかけての物語*2であり、ゆえにあおいとしんの、ふたりの"蛙"が一年でもっとも高い秋の空へ飛び出すカタルシスの奥行き、意味付けに一役買っている。

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何にも遮られることのない空を飛ぶふたり。しかしそのころあかねは、土砂で出口が埋まってしまったトンネル=井の中にいる。井の中にいたふたりが、井の中に閉じ込められたもうひとり助けに行く。そう、空の青さを知る人を。テーマを救出するみごとな構成だ。個人的に感じ入ってしまったのは、「目玉スター」という目の中のほくろまでを、「空」と結びつけたこと。

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 「目」から消えない、"出られない"ほくろ。しかしその目で空の青さを知った。囲まれていない空を景色を知った目玉スター。しんのであり、あおい自身のことだ。「ほくろ」をどんなアップで見せるか、どのくらい引くと見えなくなるのかという演出指針はかなり細かく指定されているではないかと思う。逆に言えば、「ほくろ」が見えているカットの心理描写を追いかけるのは、面白いかもしれない。きっと何か長井龍雪の"仕込み"があるはずだ。

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カット単位で見るならば、こういった「囲み」レイアウト(≒フレーム内フレーム)、つまり疑似的でミクロな「盆地」が、シーン/シークエンスにもたらしている効果もたしかめたい。閉じ込められているという比喩的かつ心理的状況に共通性があったとしても、内容はそれぞれ異なっている。囲みを超えたり、出たりするのではなく、その中で抱えているもの。あるいは封じられているもの。おそらくそれが『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』のかくれんぼであり、『心が叫びたがってるんだ。』で玉子の妖精に取り上げられたお喋りからつづく、秩父三部作の(岡田麿理的)秩父性、"盆地"性にかかわる部分なのだろう。だからこそ、そこから空に高く飛び上がる運動には、解放感以上の価値がある。集大成と呼ばれる作品の象徴であり、運動なのだから。

まだまだあかねの仕草(手の芝居、ポージング)、レンズ(眼鏡)と演出など、熟考を重ねてみたい箇所は山ほどあるが、ひとまずここで。相生あかねは底が知れない……!

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*1:アニマゲ丼のバックナンバーは公開範囲の変更により、一部を除き有料会員記事になっている。

*2:前作『心が叫びたがってるんだ。』と作中の時期を合わせている可能性も多分にある。

アクアの輪っかと金崎演出

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この素晴らしい世界に祝福を!』は何度観ても笑って騒いでたまにしんみりして、心の底からスカッとした気持ちにさせてくれるアニメだ。今回はそんな『このすば』に登場する水の女神・アクアの「輪っか」について書いてみようと思う。

アクアの髪型はかなり変わっている。後ろに大きな"輪っか"を作り、青い球体の髪飾りで留めるという、特徴的なスタイル。毎朝欠かさずセットするアクアの苦労がしのばれるが、感心してしまうのはその輪っかを使った演出の遊びだ。たとえば第1期8話「この冬を越せない俺達に愛の手を!」Aパート、ウィズの店内をうろつくアクア。

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スーパーマリオ風にジャンプして「の」がコインのように獲得されるアイキャッチから、「輪っか」の左右運動→付けPANでアクアが顔を出すというカット繋ぎ。「の」と「輪っか」の形、上方向への意識をかけたパロディ的かつ映像的な工夫がおもしろい。

また8話には、アクアの髪型でしか成立し得ない演出もある。

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ウィズが見逃してくれた恩返しにスキルの伝授の申し出るシーンで印象的な「輪っかフレーム」。ウィズとアクアの立ち位置からすると、多少嘘のある構図かもしれないが、「アクアに問い詰められるウィズ」という心理的包囲を成立させることで説得力を持たせている。弱い者にはとことん上から目線に出るアクアの人物像が反映された、アクアにしかできない構図だ。

この「輪っかフレーム」は気に入られているのか、第2期1話「この不当な裁判に救援を!」でも用いられている。

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国家転覆罪の容疑で牢に繋がれたカズマを脱獄させるために駆けつけたアクア。牢獄に入れられ、さらにアクアの輪っかに収まってしまうカズマという「二重包囲」が本作らしいブラックジョークなのだが、同話数の後半にはジョークが一変、笑えない方へと事態が進んでしまう(本質的にはシチュエーションコメディが続いている)。

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いささかやり過ぎにも見える絞首台の輪縄をナメたカズマの画。前半の「輪っか」とのギャップが著しく、回り回ってアクアの尻拭いをするカズマの終着点がここだという皮肉であり、結末に思えてしまうところまで含めて『このすば』だ。しかもそれを第2期の初っ端に持ってくるのだ。金崎貴臣監督の飛び道具的な演出の真髄が発揮された瞬間と言っていいだろう。

そして第2期2話では文字通りの飛び道具が、アクアのチャームポイントをかすめていく。

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大泣きしながら必死に逃げるアクアの輪っかを射抜くカズマの狙撃。スローモーション→通常速度へ戻すダブルアクションの凝った設計で、カズマの恨みつらみが放たれた矢に乗り移り、まるで的が二つあったかのような、これまで迷惑をかけられてきた「輪っか」への意趣返しのような、穿った見方をしてしまいそうなシーンになっている。

他にも表情を映さず輪っかだけで語らせるコミカルな広角であったり、わざと人物に被せて「邪魔」という意図に使ったり、用途は様々。女神の輪っかと金崎演出、今一度ご注目あれ。

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