boogyman's memo

アニメーションと余日のメモ欄

演出メモ/『空の青さを知る人よ』

『空の青さを知る人よ』は秩父三部作の集大成と謳われているが、「超平和バスターズ」作品としても、完結編的な映画だと思う。演出にしろ作劇にしろ、語り口に迷ってしまうほど密度があり、一つ一つに込められた意味が重い。言ってしまえば、「だれから/どこから」語るか、慎重に選びたくなる映画かもしれない。

「だれから」についてはまず、この2本の記事を押さえておきたい。*1

【藤津亮太の「新・主人公の条件」】第11回 「空の青さを知る人よ」相生あおい

舞台は秩父、せつなく不思議な四角関係(小原篤のアニマゲ丼)

「新・主人公の条件」では相生あおいにスポットを当て、彼女がどうして主人公であるのか解説されている。中でも荒井(松任谷)由実の「卒業写真」と過去/現在/未来の時間のあり方をつなげる鮮やかな手練には思わず拍手を贈りたくなる。公開当時、エンドロールの「写真」に引っ掛かりを覚えるといった感想をいくつか読んだが、これはそのひとつのアンサーだろう(自分自身、少なからず考えあぐねていた)。

対して「アニマゲ丼」の記事は「あかね」ルート(視点)への詳細な読み解きを主としており、あかねの素晴らしさが存分に語られている。とくにあかねが時折みせる微妙なリアクションへの解釈は一読どころか、何度も読み直しながら映像を観たいと思わせる、一種の"解答集"(「正解」とは異なる)になっている。ぜひ作品読解のガイド、参考にしたい優れたテキストだ。

これらを踏まえ、さらに深掘りしていくと何が見えてくるのかというと、例えば最初観たときから気になっていた、あかねの乗るジムニーのとある描写。

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アニマゲ丼の一文を引用しよう。

慎之介が現れて物語が進むにつれ、彼女の本心が明らかになっていきます。彼への思いはあるけどそれをハラにおさめてきたのは、あおいを育てることの方が大事だから。それは自分がガマンするということではなく、あおいにそれだけの価値があり、あおいの成長を見守ることに自分の一番の喜びがある。その選択は主体的なもので、その正しさは彼女にとって揺るぎないものだからです。悲しい「犠牲」にも美しい「献身」にも塗り込めてしまわないところに、奥深さを感じます。

着目したいのは、あかねの選択が主体的なものであるというところ。目の前にどんな壁があったとしても、人生のハンドルは自分で握っている。だから、と言い切ってしまうほどの根拠を求めるわけではないけれど、何故彼女がオートマではなくマニュアルの車に乗り、"悪路"走破性の高いジムニー(山道を通る秩父の土地柄もある)を選んでいるのか、納得できるだろう。

「マニュアル」を生かした演出もある。終盤、あかねと慎之介、「しんの」の3人で帰る車内のシーンだ。

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右手をハンドルに添え、左手でシフトレバーを握るあかね。 そこへインサートされる幼いあおいと手をつないだ高校生のあかねのバックショット。あかねの両手、右手と左手が握ってきたもの。そして、その手を離れていくもの。あかねの「手」(人生)と「マニュアル」を重ねた巧みなモンタージュ。色トレスであかねとあおいを描いているのが長井龍雪監督のフィルムらしく、また「シフトチェンジ」の意味合いがドラマと演出、両方に掛かっている。ベースを弾くあおいの手、そんなあおいの手を引いてきたあかねの手、その手を次に引くのは……これ以上は野暮だろうか。

さて本作を「どこから」切り取るか、書いておきたいのは「囲まれている」という作品のテーマと、その見せ方についてだ。

「盆地ってさ、結局のところ、壁に囲まれているのと同じなんだよ。わたしたちは、巨大な牢獄に収容されてんの」

これは作中であおいが口にした秩父盆地を皮肉って自虐するセリフ。対となるのは、あかねが卒業アルバムに書いた「井の中の蛙 大海を知らず、されど空の青さを知る」という慎之介のデビュー曲の元となり、映画のタイトルにもなっている言葉だ。

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秩父を「井の中」に見立て、仮想的に東京、あるいはもっと広い世界のことを「大海」と呼ぶ。この辺りの秩父と東京の関係性は、秩父市出身、脚本・岡田麿理の肌感覚によるものかもしれない。脇道に逸れるが、元々「井の中の蛙」の故事成語は「荘子・秋水」に由来し、秋の洪水にちなんだ話である。もし蛙が狭い井の中で空を見上げていたとしたら、それは秋の空なのだ。狙ってか知らずか、『空の青さを知る人よ』も10月の終わりから11月の頭にかけての物語*2であり、ゆえにあおいとしんの、ふたりの"蛙"が一年でもっとも高い秋の空へ飛び出すカタルシスの奥行き、意味付けに一役買っている。

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何にも遮られることのない空を飛ぶふたり。しかしそのころあかねは、土砂で出口が埋まってしまったトンネル=井の中にいる。井の中にいたふたりが、井の中に閉じ込められたもうひとり助けに行く。そう、空の青さを知る人を。テーマを救出するみごとな構成だ。個人的に感じ入ってしまったのは、「目玉スター」という目の中のほくろまでを、「空」と結びつけたこと。

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 「目」から消えない、"出られない"ほくろ。しかしその目で空の青さを知った。囲まれていない空を景色を知った目玉スター。しんのであり、あおい自身のことだ。「ほくろ」をどんなアップで見せるか、どのくらい引くと見えなくなるのかという演出指針はかなり細かく指定されているではないかと思う。逆に言えば、「ほくろ」が見えているカットの心理描写を追いかけるのは、面白いかもしれない。きっと何か長井龍雪の"仕込み"があるはずだ。

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カット単位で見るならば、こういった「囲み」レイアウト(≒フレーム内フレーム)、つまり疑似的でミクロな「盆地」が、シーン/シークエンスにもたらしている効果もたしかめたい。閉じ込められているという比喩的かつ心理的状況に共通性があったとしても、内容はそれぞれ異なっている。囲みを超えたり、出たりするのではなく、その中で抱えているもの。あるいは封じられているもの。おそらくそれが『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』のかくれんぼであり、『心が叫びたがってるんだ。』で玉子の妖精に取り上げられたお喋りからつづく、秩父三部作の(岡田麿理的)秩父性、"盆地"性にかかわる部分なのだろう。だからこそ、そこから空に高く飛び上がる運動には、解放感以上の価値がある。集大成と呼ばれる作品の象徴であり、運動なのだから。

まだまだあかねの仕草(手の芝居、ポージング)、レンズ(眼鏡)と演出など、熟考を重ねてみたい箇所は山ほどあるが、ひとまずここで。相生あかねは底が知れない……!

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*1:アニマゲ丼のバックナンバーは公開範囲の変更により、一部を除き有料会員記事になっている。

*2:前作『心が叫びたがってるんだ。』と作中の時期を合わせている可能性も多分にある。