boogyman's memo

アニメーションと余日のメモ欄

「ハーケン」の意味 

まさか、は突然やってくる。『ハイキュー!! TO THE TOP』15話の本放送を観ていて、『ハイキュー!!』で、いや松下慶子班のアニメでこんな乱れ方をすることがあるのかと思った。

松下慶子プロデューサーは『ももへの手紙』をはじめ、『うさぎドロップ』『げんしけん二代目』『ボールルームへようこそ』など、劇場・TVシリーズを問わずハイレベルな作品を制作するチームのプロデューサーだ。『ハイキュー!!』シリーズは、その「松下班に乱れなし」を如実に体現するアニメ。ゆえに部分的とはいえ、演出に影響を及ぼすような"緩み"が画面に出ていることが信じられなかった。それくらい飛び抜けてアベレージの高いシリーズだったのだ。

悔しかっただろうな、と思う。勝手な思い込みかもしれないが、プロデューサーだけでなく、監督以下かかわってきたスタッフの多くが、15話の放送に対して期するものあったのではないかと想像してしまった。だから、第22話「ハーケン」で尾白アランのスパイクを日向をレシーブしたトリプルアクション、そして止まる時間の中で語られる言葉には思わず目頭が熱くなり、画面がぼやけて見えた。

――稀に、長く、そして多分苦しい事の方が多い時間の中で、ごく稀にこういう1本がある。

思い出すだけで心が奮い立つような、自信が蘇るような、大きく険しい山を登る途中に足掛かりとなってくれるような1本。

それは奇蹟などではなく、100本に1本、1000本に1本であれ掴みに行って掴む1本。

稀に掴む、そういう1本を紡いで上へ上へと登って行く。

ほぼ原作準拠の展開であり、言ってみればこれは名場面の再現だ。原作の素晴らしさは今更持ち上げるまでもない。間違いなく最高の作品だ。しかしその「再現」にいったいどれだけの想いが託されているのか。このスパイクを受けきれなかったら、つまり「劇中屈指の名場面」をレシーブ(アニメの文法に置き換えて再現)できなかったら、"アニメ化"の意義が揺らいでしまっていたのではないか。そんな風に考えてしまうほど重く、意味のある1本だったかもしれない。コンテ・演出を担当した佐藤雅子監督はシリーズすべてにかかわり、満仲勧監督からバトンを渡された人で、敢えて挙げれば「VS 白鳥沢」4話「月の輪」の演出が有名だろうか(これもトリプルアクション+一瞬の時間停止がある)。

正直言って、『ハイキュー!!』ほどのハイアベレージが期待される作品を引き継ぐ監督は厳しいなと思っていた。良くも悪くも人間は最初に見たものを基準にしてしまう。満仲期と比較されて立っていられる演出家なんて……そこへ果敢に挑んでいったのが佐藤雅子監督だった。いわば稲荷崎、烏野と類する「挑戦者」の立場。

「ハーケン」は原作第281話と同じサブタイトルだが、原作のあの瞬間を、あの感銘を再現しようとして再現した、「掴みに行って掴んだ」話数だ。そこには原作と違った意味も乗っている。「思い出すだけで心が奮い立つような、自信が蘇るような、大きく険しい山を登る途中に足掛かりとなってくれるような1本」。こういうものが見れるから、アニメは堪らないのだ。

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